ヨハン早稲田キリスト教会で語られたメッセージの中から幾つかをご紹介。聖書の御言葉の恵みを分かち合いましょう。

カナの婚礼 -礼拝の主人公であるイエスキリスト-

場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

木曜礼拝2010.7.8

聖書本文:ヨハネによる福音書21節?11

主題:カナの婚礼

 

こんばんは。今日はヨハネによる福音書2章です。

イエス様が生まれ育ったガリラヤ地方のカナという場面における結婚式での出来事であります。

イエス様が行った最初の奇跡であると言われています。

ヨハネによる福音書

2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。

皆さんは、結婚式や披露宴に招かれた人がいますか?

または、この中で結婚している人もいれば、そうでない人もいるでしょう。


私も結婚式を2年半前に挙げました。

その時に結婚式や披露宴の招待状を作ったことを覚えています。

結婚式に招くのは誰ですか?それは新郎新婦です。

新郎新婦の名前で人々を招くのです。

その招待客の中にイエス様や母マリアがいたということは、

この婚礼の主人である新郎新婦は、イエス様と近い関係にあった人かもしれません。


日本では結婚式と披露宴は大体セットです。

大体1日のうちに全部の式が終わります。

しかし、当時のイスラエルでは、婚礼の宴は水曜日から始まって1週間続きます。

当時、婚礼は人生で最も祝福された日とされたのです。


 しかし、この喜びの時に問題が生じます。

宴会の途中でぶどう酒が切れてしまったということです。

ヨハネによる福音書

2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。


これは非常事態でした。

イスラエルには「ぶどう酒がないなら喜びもない」という諺まであるほどで、

宴の席で、ぶどう酒は必要不可欠なものだったのです。

ぶどう酒は結婚の喜びを増し加え、

分かち合うもの(詩篇104:15,伝道書10:19)と考えられたのです。


私達は、この物語をどのように考えますか。

婚礼の場面において、最も大切な婚礼の宴を盛り上げ、

楽しいものにするぶどう酒がなくなったというこの出来事をどのようにとられるべきでしょうか。

この婚礼は、ある意味『わたしたちの人生』に例えることができます。



わたしたちは自分の人生を喜び溢れる楽しいものにしたいと願います。

そして、何がわたしたちの人生を楽しいものにしてくれるのか、

何が私たちの人生を盛り上げるものかを探しもとめています。

皆さんにとっての人生のぶどう酒は一体なんですか?


恋人との恋愛関係ですか、それともスポーツですか、趣味ですか?

それとも出世や金儲けでしょうか。

人間は何とかして自分の人生を盛り上げたいと願っています。

そして、何かが自分の人生のぶどう酒であるか、探しています。

しかし、ほとんど全ての私たちの人生において、

今日の本文のような場面に必ずや直面するのです。

「ぶどう酒がなくなりました」


まさにこの事こそ、私達の人生に起こるべくして起こることです。


ワールドカップももうそろそろ終わりです。

ここ一カ月世界中がこのお祭り騒ぎで盛り上がり、人々は楽しみました。

お祭り騒ぎも終わりに差し掛かっています。お祭りが終われば空しさが残ります。

この世において、喜びを与えてくれるものにもいつかは終りが来ます。

そうしたらこれからは何に人生の喜びを見出せばいいでしょうか?

新しい人生の喜びを探し求めてこれから旅に出ますか?


これが、全ての人々が直面する、人生における喜びの限界です。


今日の本文にある披露宴の場面にそれが現わされています。


もし、披露宴の場所でぶどう酒がなくなれば、当然その場はしらけます。

人々は不平不満を言い出し、せっかくの人生一度切りの喜びの場が、

不満と怒りの場になる可能性もあるのです。

何よりもこの披露宴を主催した新郎新婦にとって、この状況は危機的なものでした。

彼は自分の顔に泥を塗り、面目丸潰れになる可能性がありました。


私たちの人生においても、このような喜びの限界、楽しみの限界が必ず訪れます。

その時にどうすれば良いのかという問題があります。


また、このぶどう酒は今を生きる私たちにとって何でしょうか?

それは、私達自身の限界をも意味します。

おそらく、この新郎新婦は持てる限りの財産を使って、

この婚礼に訪れる人々をもてなす為に、

沢山の御馳走を準備し、またぶどう酒をもお金をはたいて買ったでしょう。

このぶどう酒は、人々をもてなそうとするこの新郎新婦の努力そのものです。


しかし、ぶどう酒はこの婚礼の途中でなくなろうとしていました。

新郎新婦が一生懸命ぶどう酒を準備していたのに、多くの人が訪れ、

ぶどう酒を飲み続けて、今やなくなろうとしていました。


これは、この新郎新婦の限界を意味します。

それだけでなく、私達自身の限界をも意味します。

私達自身の能力の限界があります。

体力の限界、また愛の限界があります。

私達は、自分の人生が喜びにあふれるものになってほしいと願いながらも、

常にこの自分の限界の中で苦しんでいます。この問題に対する答えは何でしょうか?

答えはあります。

 

彼らにとって最も幸いであったのは、

この婚礼の場面にイエス様と母マリアがいたということなのであります。

私達にとって、全ての問題の解決は、

主が私達の人生の現場に共におられるということしかありません。

自分を見て観れば、足りないところばかりです。それゆえに失望や落胆もあります。

しかし、主を招いているならば、その問題は解決できると信じます。

 

人生における本当の喜びは何でしょうか?

ワールドカップでもなく、何かのイベントでもなく、

結婚式でもありません。

それは主を招き入れること、

そして何よりも主が私達を招かれる『礼拝』であると言いたいです。


教会における毎週の礼拝は婚礼の宴に例えることができます。

皆さん、初めて教会に来たとき、どのように思いましたか?

なぜ人々はこんなに楽しそうなんだろうか?

振り付けし、歌を歌いながらみんな楽しそうにしている。

聖書のメッセージに真剣に耳を傾けている。

私も10年くらい前に初めて教会に行きましたが、

そこには今まで行ったお寺にも神社にもない喜びがありました。

私は勿論理解できず、人々が楽しそうなのを見て不快に思って終わりましたが、

今イエス様に出会ってみて、人々がなぜ礼拝で喜ぶのか、分かります。

礼拝は主なる神様の愛、喜び、平安を体験できる場です。

そこに本当の喜びがあります。

そして、その礼拝という婚礼の宴に招待するのは、他ならぬイエス様であります。

イエス様こそが、礼拝の主人公であり、私達を教会の礼拝に招いて下さる主人です。

今日様々な状況で教会に来た皆さんであると思います。

職場で色々大変だったかもしれません。

学校の試験があまり良くなかったかもしれません。

そんな状況を見ながらも、礼拝において、主が伴われることが真の喜びになると信じます。

 


『私達はこのような礼拝にどのような心で臨んでいるでしょうか?』

日々の礼拝にどのような喜びをしたい求めて来ているのか?

毎週私達には尽きない喜びが与えられているという確信と感謝があるか。

その通り、礼拝が喜びになっているか?

マンネリズムに陥らないように祈ります。


この婚礼の場面では、イエス様は招く主人ではなく、招かれたお客さんでした。

それゆえに、主は

ヨハネによる福音書

2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

と言われたのです。主が私達を招かれるときはまだ来ていなかったのです。

主が招かれたお客さんだったからです。

イエス様の言葉は、何もこの新郎新婦に対する無関心や責任逃れの言葉ではありません。

確かに主の時はまだ来ていませんでした。

主の恵みの時は、イエス様は十字架で死なれ、復活されてから本格的に始まるからです。

しかし、主はこの地上に生まれました。

そして、今、この婚礼の場を開いた新郎新婦は、面目をつぶし、

婚礼をしらけさせてしまうという危機の場面にいました。

そのような中で、主が何もされない事はないのです。

主はこの場面で立ち上がろうとしておられました。


ヨハネによる福音書

2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。

2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。

いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。

2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。

2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。


今日、私達が5節?8節を通して見ることができるのは、召使たちの行動です。

彼らはただ、イエスの言われた通りにしたのです。

私達は、石の水がめを見て何を期待しますか?

水がめには水しかありません。

もちろん、水かめの水がぶどう酒になるとは、誰も思ってもいないのです。

しかし、この主の奇跡は召使たちの主の言葉に対する従順がもたらしたものであります。

また、私達は、なによりも母マリアが、

自分の子であるイエス様を心から信頼していたということも私達は分かります。


この息子は、必ずこの状況を何とかしてくれる。

人には理解できないかもしれないが、

想像を超えた方法であっても、イエスはぶどう酒がなくなったこの婚礼の場に、

再び喜びを与えて下さると信じていたのです。

マリアは、イエスについてどのような預言を聞いていたでしょうか?


ルカによる福音書135節?37節を見てみましょう。

ルカによる福音書 

1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。

1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。

1:37 神にできないことは何一つない。」

 

マリアは、イエスが神の子であり、神にできないことは何一つないという言葉を頂いていました。

イエス様の誕生自体が、処女マリアから生まれるという奇跡です。

マリア自身が奇跡の体験者でした。

だからこそ、マリアは、イエス様の言うことは、何でもその通りにしなさいと言えたのです。


皆さんはどうですか?主の御言葉は何でも実行してみなさいと人に言えるでしょうか。

または、自分自身が主の言われることは何でも実行してみようという心はありますか?


(決断)


私達の御言葉に耳を傾ける姿勢、聖書勉強、筍の集いの姿勢。

知識の伝達、知識の吸収で終わらないようにしなければなりません。

毎回ごとに悔い改めがあるように、どんな小さなことでもいいです

決断と決心があるならば、私達の信仰生活は日々成長していくと信じます。

召使たちの従順が、奇跡を起こしたのであります。


礼拝に参加して、感情は恵まれる。

しかし、じゃあ実際に主に従う決断をする場面になるとしり込みして、何もしないで終わってしまう。

その時の恵み、その時の決断はどこにいったのでしょうか?

必ず、決断と行動が伴うように、何かの小さな決心でもあるように祈ります。

 

3つ目に、いつの間にか水がめの中で水はぶどう酒に変わっていました。

いつ、どのように変わったのかは分かりません。

しかも、この出来事を世話人は知らなかったのです。

ヨハネによる福音書

2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、

2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」


このようにして、世話人は、花婿をほめたのです。考えてみて下さい。

一週間も披露宴が続くという事は、どれほど大量のお酒をふるまわなければならないか。

ものすごいお金が必要です。

だからこそ、人々は、最初だけ高価で良い酒を飲ませて、

酔っ払ってくると、もう味も何も分からないので、

まずい酒を出してもばれないだろうという魂胆でそうするのがほとんどでした。

そうでもしないとお酒代に莫大な費用がかかってしまうからです。

実際、この花婿は悪い酒さえも用意できていなかったのです。

悪い酒どころか、酒自体を彼は十分に用意していなかったのです。

しかし、このような危機的な状況はイエス様が婚礼の場におられたことで回避されました。

回避されるどころか、もっと良い状況へと変えられたのです。

新郎新婦は酒がなくなることで恥をかくどころか、

むしろ最後に良い酒をとっておく素晴らしい新郎であるとほめられるようになったのです。

 

私達はこれを見ながら考えなければなりません。

なぜこの新郎は褒めたたえられたのか。

実際彼はむしろ人々から非難されるべき準備不足の人でした。

しかし、彼がこのように認められたのは、ただ彼が主イエス様を招いたからに他なりません。

彼は自らの婚礼の場にイエス様を招いた。それが全てです。


私達もそうです。

私達の人生と言う、喜びがあふれるべき場所にイエス様がおられますように、

そして、主は心の隅においやられているのではなく、心の中心におられるように願います。

そうすれば、私の欠点、私の未熟さを補ってあまりある主の働きが私の人生で行われ

人々が、世の中が認める主の証人、素晴らしいクリスチャンとして世の中で栄光を表せると信じます。


最初は良いぶどう酒、だんだん劣ったまずいぶどう酒を婚礼でもてなすように、

多くの人々は、きぼう最初は期待にあふれ、希望にあふれた人生であるかのように思います。

しかし、だんだん人生に落胆し、徐々に失望し、

最後はむなしく死んでしまう人が多いものです。

主に出会った人はそうではありません。

だんだん希望に満ち溢れ、ますます素晴らしく喜びあふれたものになります。


2コリントの信徒への手紙 

4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

日々、わたし達をあたらしく、良きものに作り変えてくださる主に我々は感謝しましょう。

 

私達の信仰生活がだんだんと劣ったものになっては決してなりません。

年を追うごとに新鮮さが失われる。主を愛する心が失われていく。

最後にはお茶を濁すような味になる信仰生活ではいけません。

むしろ、ますます旨くなる。ますます美味しくなる信仰生活が必要です。

それには、日々、主が語られる御言葉を実践し、従順するしかありません。


今日、私達は決断しましょう。

日々の信仰生活で主からどのような恵みをいただくべきか。

毎週毎の礼拝で何を決断するべきか、毎回の弟子訓練、筍の集いで何を実行するべきか。

そのように心をつくす人に主が恵みを与えて下さり、

ますます私達の信仰の人生が味わい深くなることを信じます。

 

今日の本文を今まで見てきました。

ぶどう酒がなくなることは、能力の限界をも意味します。

蓄えられていたブドウ酒が底を尽きる。人間の準備には限界がある。

いくら頑張っても届かないものがある。

しかし、イエス様がおられるならば、それを乗りこえることができると信じます。


そして、ないはずのぶどう酒が信仰によって、生み出され、

しかも最初よりももっと美味しいいぶどう酒になるように。


私達が、自分自身の能力の限界に悩む人、

主に対する信仰によってこの壁を乗り越えたいと心から願います。

アブラハムを初め、多くの信仰の人物たちは、

信仰によってこの限界を乗り越えて来ました。


私達はどうか。この日本の状況を見ると、簡単とは決して言えない状況にあります。

私達自身を見れば、能力の限界、愛の限界を感じます。

しかし、主が共におられるならば、

主と共にそのような困難を乗り越えていく事ができると信じています。


我々がなすべきことは、主が命じられた御言葉を日々、忠実に黙々と実行し

従順することであります。

その信仰を通して、自らの限界を乗り越える奇跡を体験できると信じます。


私達はコスタに向かっていますが、どうか、今回のコスタを通して、

私達が自らが直面する個人的な限界の壁を突破することができるように、

そのような祈り課題をもって望んでいきましょう。

 

 

このブログ記事について

このページは、ヨハン早稲田キリスト教会が2012年4月10日 02:13に書いたブログ記事です。

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