ヨハン早稲田キリスト教会で語られたメッセージの中から幾つかをご紹介。聖書の御言葉の恵みを分かち合いましょう。

ステファノの説教から - 人生の出エジプト

場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

木曜礼拝2007.9.20

聖書本文:使徒言行録7:30-50

 

こんばんは。素晴らしい賛美、ありがとうございました。

衣装も映像もあって良かったと思います。

今日の本文は使徒言行録7章の箇所であります。ステファノの説教です。

ステファノは恵みと力に満たされた執事でありました。


使徒 6:8 さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。


彼は平信徒です、献身者ではありません。

ペテロを始めとする使徒達が祈りと御言葉の奉仕に専念する為に、

事務的な、行政的な仕事を行う為に任命された平信徒の役員であります。

しかし、彼が行った業は素晴らしいものでした。

彼のあまりにも目覚しい働きの故にユダヤの律法学者、 祭司長達もステファノを捕らえざるを得ませんでした。


ここで私達は驚くべき状況を見ることができます。

使徒言行録4章ではペテロとヨハネが捕らえられて取調べを受けています。

彼らの目覚しい働きの故です。

そして使徒言行録5章では、再び使徒たちが捕らえられて牢に入れられました。

そして、また7章では、今度は平信徒のステファノが最高法院で取り調べを受けているのです。

これは一体どういう状況でしょうか?

律法学者や祭司長は前よりも忙しくなったのではないですか?

以前はイエス・キリスト一人を黙らせれば良かったのです。

イエス・キリスト一人がいなくなれば全て問題は解決すると思っていました。

しかし、今はもっと大変です。イエス・キリストはもはやこの世にはいません。

しかし、ペテロが説教します、奇跡も行います。ヨハネや他の使徒も説教し、奇跡を行います。

今度は12弟子でもないステファノが説教します。

ユダヤの宗教指導者達は動揺したのに違いありません。

なぜ、イエスがいなくなって良かったと思ったら今度はあっちこっちで同時多発的に弟子たちが説教し、奇跡を行っている。

これは巣晴らしいことです。それを誰が行っているんでしょうか?聖霊様です。

一人一人に内住しておられる聖霊様が、イエス・キリストが行う業を弟子たちを通して行っているのです。


ヨハネによる福音書14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、

また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。

この御言葉を信じますか?

この御言葉が私たちを通しても実現することを切に祈ります。


その素晴らしいイエス・キリストが行う業を行う業を行っていたのがステファノであります。

彼の説教で言いたい事は何でしょうか?

これは私達にとっても聞くべき、また悔い改めるべき事が数多くある説教であります。

それを今日分かち合いましょう。

 


ステファノの説教に出てくる人々は出エジプトの指導者モーセとイスラエルの民達であります。

100万人以上はいるといわれる多くの民を紅海を割って導いた素晴らしい指導者であります。

ちょうど今日の賛美のように紅海が割れたのだと思います。

そして新しい土地に入ってから、イスラエルの民はどうなったのか、それが問題であります。

出エジプトの道のりは私達の人生にたとえる事ができます。

約束の地を目指して進むイスラエルの民がいます。

私達も天国という約束の地を目指してこの世という霊的な荒れ野を進んでいるのであります。

その中で、私達は何を気をつけ、どのようにこの荒れ野の生活を乗り越えるべきであるのか、

それが今日の本文の内容から理解することができます。


 我々にはモーセよりも偉大な指導者がいます。

救い主、イエス・キリストです。

彼は十字架を通して私たちを罪の奴隷から救い出して下さいました。

私達の救いは当然の事でしょうか?いいえ、私達の救いは奇跡です。

紅海が分けられたのと同じように、ありえない出来事と言っても良いでしょう。

なぜ罪人の私が救われたのか、それは主の驚くべき恵みと言う他ないのであります。

Amazing Grace」の作者のジョン・ニュートンが言っているように驚くべき恵みです。

皆さんそう思いますか?

私のような者が救われたのは奇跡です。

だから感謝であり、喜びであります。


その後に、その心が続けば良かったのですが、そうではなかったのであります。

エジプトを脱出して奴隷から解放されたイスラエルの民は何と戦わなければならなかったのか、

それは偶像崇拝であります。

 

 今日のメッセージの一つ目のポイントは、クリスチャンは偶像崇拝と戦わなければならない、ということです。

偶像崇拝している人がこの中にいるのでしょうか?

勿論、クリスチャンになって仏像を拝んだり、神社参拝している人はいないでしょう。

そういう事をいうのではありません。

イスラエルの民達は、目に見えるものに頼ってこの荒れ野の生活を乗り越えようとしたのです。

そして、モーセがシナイ山に登っている最中にアロンを通して偶像を作ったのです。


 私達の生活を振り返ってみましょう。

沢山の素晴らしいものが主から与えられていることに気付いているでしょうか

必要なお金が与えられています。信仰生活を送る素晴らしい環境が整えられています。

私達がこの教会に導かれ、祈りと御言葉の生活を送れる事自体が本当に恵みです。

そして、必要な人間関係も与えられています。

社会的な地位も与えられています。

しかし、その与えられているもの、主から贈られたものに心を奪われて、

それら全てのものを与えてくださる主なる神様に心を向けないのが偶像崇拝なのであります。

贈り物に心を奪われて、贈り主に目を留めないのが偶像崇拝なのであります。


 ある子供はお父さんからプレイステーションを与えられて、そればっかりやっています。

そしてそれを与えてくれた父親の愛を忘れてしまうのです。

そして目に見えるプレイステーションに心を奪われてしまうのです。

これでは父親が悲しむのも当然であります。


私達は目に見えるものに心を奪われていないでしょうか?

主は私達の必要を満たしてくださいます。

素晴らしいものを沢山与えてくださる方です。

しかし、私達は主から与えられた素晴らしいものの先にある、

贈り主であり、与え主である主なる神様、このお方を見なければならないのです。

しかし、イスラエルの民はそれができなかったのです。


 驚くべき紅海の奇跡を体験して彼らは新しい土地に入ったのです。

しかし、水がなくなりました。喉が渇いたと不平を言います。

肉がないと肉が食べたいと不平を言います。

主は水も、肉も与えてくださいました。

しかし、水があるかないかが、その人の人生の重要な事になってしまったのです。

贈り物はない時もあります。

しかし、贈り主がいない時は一度としてあったでしょうか?

主が私達から離れさる時はひと時もありません。


出エジプト 14:31 イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。


こう書いてあります。イスラエルは、主の御業を見た。とあります。

見たのはいいのです。

しかし、見たその奇跡があまりにも大きくて、常に目で見て確かめようとする生き方になってしまったのであります。

信仰生活は進化しなければなりません。

イスラエルの民は最初は、奇跡を見たから信じたのです。

しかし、そのままでは私達は見えるものに心を左右されて、最後は偶像崇拝に陥ってしまうのです。

その為には私達はどうすれば良いのでしょうか?主が与えてくださったものがあります。


使徒7:38 この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。

主から与えられたのは「御言葉」です。

私達は、見て信じる信仰から、見ないで、御言葉で歩む変化しなければならないのであります。

彼らは常に見て信じようとしました。紅海の奇跡も見ました。マナも見ました。

だから、神様も見えないといけない。

そうではありません。

私達の神様は『御言葉』を通して私達の人生を導いてくださるのであります。

だからこそ、私達は御言葉をどんなに愛さなければならないでしょうか?

私達は毎日デボーションをやっているのでしょうか?

御言葉を口ずさんで、愛しているのでしょうか?

そうでなければ、私達の霊的な感覚はすぐに物質的になります。

そして目に見えない神様の導きを信じられなくなるのであります。

それは偶像崇拝の恐ろしさであります。

日本も霊的な荒れ野であります。

この荒れ野をどのようにして最後まで走りぬくのか、

御言葉を握り締めなければなりません。御言葉を握り締めるものになりましょう。

 


二つ目は何でしょうか?

使徒 7:39 けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、

モーセに従わなくなったことです。

エジプトをなつかしく思うようになってしまったことです。

エジプトは何でしょうか?完全な奴隷状態です。

自由がありません。未来も希望もありません。

しかし、現実の苦難の中で、与えられた恵みを忘れるときに、

私達はエジプトをなつかしく思っていまします。


出エジプト 15:1 モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。

出エジプト 15:2 主はわたしの力、わたしの歌

主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。


主は紅海の奇跡を見て、神様に感謝し、賛美しました。感謝と賛美が満ち溢れたのです。

しかし、彼らは賛美と感謝を忘れてしまいました。

 

エジプトの生き方は孤独な生き方です。眞の家族も、兄弟姉妹もいません。


最近感じることがあります。私は教会に導かれて本当に感謝しています。

教会はある意味私達の人生の全ての歩みと共にいてくれる場所です。

兄弟姉妹もそうです。

私達は天に召されるそのときまで、共に歩む人々であることを信じます。

赤ちゃんとして生まれてから、年をとって死ぬ人生の最後まで、

教会は私達に関わってくれるんではないでしょうか?

考えてみてください。

もし、私達が教会に導かれていなかったならば、人生で重要な決断を自分の考えで下さなければなりません。

これはどんなにか大変でしょうか?

しかし、私達はそうではありません。

牧師先生を初めとして、先生方や筍長が私達の人生の全ての歩みの為に祈り、見守り、必要なアドバイスをしてくれるのです。

これがどんなに大きな恵みであり、助けであるでしょうか?

それに対する感謝の心を私はよく感じます。

そして、主がこのような素晴らしい場所に導いてくださったことに対してどのような恩返しをすれば良いのか、

改めて考えるようになりました。私達は、教会を通して、主に仕えます。

この教会の為に何ができるのか?


教会だけではありません。職場や大学もそうです。

この与えられている職場の為に、この入学させてくださった大学の為に、自分は何ができるのか?

そういう心で生活する人は人生に失敗することがありません。

それが恩義の心です。感謝と恩を知る心です。真の礼拝はそこから始まるのです。

 

ヘブライ人への手紙 13:17 指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。

この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。

彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。

そうでないと、あなたがたに益となりません。

 

使徒 7:40 アロンに言いました。

『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』


だから、私達の問題は何でしょうか?それは『気づかない』事なのです。

主は常に私達と共におられるのです。

しかし、気付いていないんです。

イスラエルの民を見てください。


イスラエルの民の問題は何でしょうか?

それは、イスラエルを導いてくださる神様が既にいるのに、それに気付いていなのです。

それで新しい神を作るよう、要求しています。

気付かないこと、これが罪なのです。

私達の生活はどうでしょうか?

私達の信仰生活を助けてくれる兄弟姉妹がいます、先生方もいます。

何より主が私達の人生を導いてくださいます。

しかし、本当の意味でそれに気付いていないのです。

だから感謝する事ができないのです。

賛美することもできないのです。

これが霊的に鈍くなってしまっていることであります。

感謝と、賛美は気付くことから始まるのであります。


教会でいつも食事を作ってくれる婦人会の人々がいます。

その労苦に気付いているでしょうか?

また、私達の為に毎日祈ってくれる先生や筍長がいます。

それに気付いているでしょうか?

沢山の人々の労苦で自分の人生が支えられている事に気付いているでしょうか?

それに気付かないと、私達は賛美と感謝の信仰生活から、不平不満の信仰生活に陥るのです。


彼らは目に見えない主の導きに気付きませんでした。

私達はどうでしょうか?

十字架の恵みに気付いているでしょうか?

主が私達の罪を購うためにどれ程の苦痛を耐え忍ばれたか、ご存知でしょうか?

それに気付かないと、私達は世の中を生きる中での少しの苦しみや痛みですぐに文句を言ってしまうのであります。

会社や家族、教会での人間関係で苦しいこと、悲しいことがあった時に不平不満の生活になってしまいます。

それはイエス・キリストの十字架に至る苦しみに気付いていないからです。

また、主が私達の為に常にとりなして祈っておられる事に気付いているでしょうか?

イエス・キリストは今もなお大祭司として私達の為に祈っていてくださいます。

それに気付かないと、私達は感謝できないのです。


以前、罪とは無関心であり、傍観であると、見てみぬ振りであると言いました。


聖書の罪と世の中の罪は違います。聖書の罪はもうひとつあります。

「十字架に気付かない事」「十字架を忘れる事」です。

イエス様の十字架を信じているといいながら、私達の心はいつの間にか主の受けられた苦しみに気付かなくなっています。

十字架を知らなければ、私達は本当の感謝を主に捧げることができません。

主の十字架に気付くものになりましょう。

そうすれば、私達は様々な苦しみを乗り越えることができる強い信仰者になることができます。


主は、イスラエルの民を見て、こう言っておられます。

使徒 7:42 そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました。

それは預言者の書にこう書いてあるとおりです。

『イスラエルの家よ、

お前たちは荒れ野にいた四十年の間、

わたしにいけにえと供え物を

献げたことがあったか。

 

40年間の荒れ野の生活でいけにえと供え物を捧げたことがあったか?

勿論、形式的には捧げた事があったでしょう。

焼き尽くす捧げもの、和解の捧げもの、色々捧げたでしょう。

しかし、眞の捧げものを捧げた事があったか?

私達はどうでしょうか?

毎週捧げている主日礼拝、毎日早天祈祷会があります。

木曜日、土曜日、礼拝があります。それらが本当に主に喜ばれる礼拝を捧げているか?


それが私達の主からの愛のある戒めとして受け止めなければなりません


主に喜ばれない礼拝とは何か?

それはイスラエルの民達を見れば分かります。

感謝と賛美のない礼拝、不平不満の中で参加する礼拝、

そして主の導きを信じられない礼拝、御言葉を握らない礼拝、これらを主が受け取らないということであります。


だからこそ、私達はイスラエルの民を見ながら、主に喜ばれる礼拝者へと変わっていかなければなりません。


一つは、恩返しの心です。

イエス・キリストは何の為にこの世に来られたのでしょうか?

十字架の購いの御業を成し遂げるためです。

そして、十字架は律法の完成です。私達は主の十字架を考えるならば、感謝をせざるを得ません。

そして、私達と共にいて下さり、私達を導いてくださる聖霊様を思うと感謝せざるを得ません。

そして、主が与えてくださった全ての環境があります。

礼拝を捧げる教会があります。

私達の為に祈ってくれる先生方や兄弟姉妹がいます。

それに気付いた時に、私達は主に喜ばれる礼拝が始まるのです。

まず初めは『気付く』ことです。

そして、気付いて、感謝するところから私達は全ての行動を始めなければなりません。

私達の行動の出発点があるのです。


教会で奉仕するにしてもそうです。

ある人は奉仕をすれば人々から認められると思って奉仕します。

ある人は任された働きだからと義務感と責任感で奉仕します。

ある人は主が私のようなものを救ってくださったから、何か私が主の為にできることはないかという心で奉仕します。

どれが私達の行動の出発点になるべきでしょうか?


礼拝を捧げることも同じことであります。

礼拝を捧げることが義務だから礼拝を捧げるのでしょうか?

私達の心に、主に何か我々が恩返ししたい、賛美と感謝を捧げたい、その心から主に喜ばれる礼拝が始まるのであります。


主は私達の動機を見ておられます。

まずは、私達に与えられている様々な恵みに気付くことです。

イスラエルの民は主の恵みを忘れました。そして主の恵みに気付かなくなりました。

 


もう一つは、私達を主に喜ばれる神の住まいとすることです。

使徒 7:46 ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、

使徒 7:47 神のために家を建てたのはソロモンでした。

 

新約の時代、主が住まわれる場所が大きく言って二つあります。

一つは、教会です。

教会の頭はイエス・キリストだからであります。

主が臨まれる教会、その教会を私達はどのように愛し、大切にするべきでしょうか?

勿論人の手の作ったものは主に不十分なものであります。

しかし、神の子供である私達が主に喜ばれる礼拝を捧げる聖殿を主の為に備えるならば、

主はその心を見て喜んでくださることを信じます。


もう一つは、私達の体自身であります。

主は今も聖霊様として私達の心の中に内住しておられます。

その主と共に歩むことです。主が喜ばれる聖なる神殿として自分自身の体を聖なるいけにえとして供えることです。

その時に、私達は過去のイスラエルの民と同じような過ちを避け、主に喜ばれる礼拝者になることができるのであります。

 

出エジプト 15:1 モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。

主に向かってわたしは歌おう。

主は大いなる威光を現し

馬と乗り手を海に投げ込まれた。

出エジプト 15:2 主はわたしの力、わたしの歌

主はわたしの救いとなってくださった。

この方こそわたしの神。

わたしは彼をたたえる。

わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。


紅海の奇跡を見て、神様に感謝し、賛美しました。感謝と賛美が満ち溢れたのです。


 

ポイントをまとめます。

偶像崇拝

  贈り主よりも贈り物に心を奪われる

  恩義の心を忘れる

  罪とは気づかないこと

  感謝とは「恵みを知る」こと

 

主に喜ばれる礼拝とは何か?

  恩返しの心で行う。律法の完成は十字架である。

  自らを主の宿られる聖殿とする。

  与えてくださった御言葉

 

このブログ記事について

このページは、ヨハン早稲田キリスト教会が2012年2月21日 05:59に書いたブログ記事です。

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