ヨハン早稲田キリスト教会で語られたメッセージの中から幾つかをご紹介。聖書の御言葉の恵みを分かち合いましょう。

エサウとの再会 - あらゆる問題の解決のためには?

場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

木曜2004.8.24

聖書本文:創世記32:23-33

主題:エサウとの再会

 

こんばんは。KOSTAが終わってから一週間が経とうとしています。

皆さんはそれぞれKOSTAで受けた恵みを保ってますます成長しているでしょうか?

KOSTAの最中にも話がありましたが、KOSTAが終わって山を降りてからが、

私たちにとっての本当の勝負であります。

それぞれの遣わされる職場やキャンパスで本当に世の和解者としての実を結ぶ私たちになりますように、祈ります。

 

 今日の本文は創世記32章、ヤコブがヤボク川を渡る場面であります。

ヤコブはアブラハムの孫であり、イサクの息子であります。

そして、ヤコブには双子の兄がいます。名前は知っているでしょうか?エサウであります。

しかし、双子でも外見はまったく似ていない双子です。

エサウは荒々しく山男のような人間であり、逆にヤコブは弱々しく女性的な雰囲気を持つ人間でありました。

もともとヤコブの名前はどういう意味を持っているんでしょうか?

それは『騙す者』という意味があります。

実際聖書の登場人物は、その名前の通りの人生を歩む人物が数多くいます。

彼は兄のエサウが本来受けるべき祝福を計略によって騙し取りました。

そして、エサウに恨まれて、命を狙われ、エサウから逃げながら長い間生活を送ってきました。

そして、この後33章でヤコブはエサウと久しぶりに兄弟の再会を果たします。

しかし、彼にとっては喜ばしい再会ではなく、命の危険を感じる恐ろしい再会であります。

このような場面で、ヤコブはエサウと再会する為にヤボクの川を渡ろうとしているところです。


 

 今日の本文、

創世記32:23その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。

32:24皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、

32:25ヤコブは独り後に残った。

 

とあります。

私達はKOSTAが終わって沢山恵みを受けたと思います。

しかし、実際に世の中に出てみるならば、現実が変わっているかと言えば、

何も変わっていないのであります。

KOSTAが終わって山を降りたら、家族の反応が変わっていたでしょうか?

職場がキリスト教に理解を示すようになっていたでしょうか?

そんな事はないのです。

折りしもKOSTAの初日は日本が太平洋戦争で敗戦した日でありました。

小泉首相は靖国神社を参拝しました。

日本とアジアの国も何も変わっていません。

私達がKOSTAの会場に行く前に持っていた課題は何一つ解決されていない事に私達は気付かされるのです。

ここで、私達はKOSTAで山を降りてから、それぞれのエサウと対面しなければならない事を心に留めましょう。

ヤコブは今までエサウを避けて何とかうまく人生をやりくりしてきました。

ヤコブは頭の回転が速い人物です。

色々な計略で財産と家畜を蓄えてきました。

子供も11人も生まれました。

しかし、人生の中で一番大きな課題であり、問題の中心であったエサウとの関係が、何一つ解決されていなかったのです。

今年のテーマは何だったんでしょうか?

『世の和解者 イエス・キリスト』です。

神様との和解、隣人との和解...ヤコブにとって人生の大きな課題はエサウとの和解でありました。

 

創世記 32:12どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。

兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。


ヤコブにとっての一番の悩みがエサウとの関係でありました。

いくら金持ちになっても、子宝に恵まれても、

いつも心に引っ掛かるのがエサウだったのであります。


私たちもそうではないでしょうか?

 

KOSTAが終わって帰ってきても直面する問題を見ると、頭が痛くなるんです。

その中でも人間関係の問題は大きいはずです。

この中で、私達はそれに目をそらしてはいけないのです。

しばらく目の届かない所に置いておいてもいつかは必ず解決しなければならない課題に直面しなければなりません。

ヤコブはいつまでもエサウを避ける訳にはいかなかった。

いつかはエサウと対面しなければならなかったのです。

KOSTAで恵みを受けたならば、これを機会に私達が解決するべき課題に取り組みましょう。

何かが変わっている訳ではありません。

自分受けた恵みが全てであります。

だからこそ、私達は主の恵みによって強くなり、和解するべき人間関係、切り離すべき罪を完全に切り離すこの時期になりましょう。

そうすれば、私達は残りの下半期、勝利する信仰生活を送ることができるはずであります。

 

ここで、ヤコブは妻と子供を先に渡らせて、一人後に残りました。

結局私達の問題は、神様と自分との間の関係であります。

誰かが解決してくれる訳ではありません。

自分が立ち上がって、決断して、解決しなければいけない問題が全てであります。

そしてここでヤコブはどのようにしたのでしょうか?

折りしも、ヤコブに戦いを挑んできた人がいました。

誰でしょうか?それは何と神ご自身でありました。

これは不思議極まりないことであります。

 

創世記 32:25ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。

32:26ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、

格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。 

32:27「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、

ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」

 

しかし、私達はここで、ヤコブの心情を考えることができます。

彼はヤボクの川を渡る前に面白いことをしています。

 

創世記 32:8ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けた。

32:9エサウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、残りの組は助かると思ったのである。

 

彼は本当に恐れに取り付かれていました。

そして、藁をもすがる思いだったに違いありません。

ここでその夜に現れたのが、何と神ご自身でありました。

どういう姿だったのかは分かりません。

しかし、ヤコブはその人物が自分を祝福してくれる存在である事だけははっきりと確信していたようです。

なぜなら、ヤコブの戦いは自分を祝福してくれるまでその人を帰らせない、という戦いだったからです。

 ここで、ヤコブと神様との戦いはどういう戦いだったのか、考えて見ましょう。

私達は主の一方的な恵みによって救われました。

それは何の努力にもよらず、ただ主の愛により、主の犠牲により救われました。

信じますか?

しかし、私達が救われた者として世において様々な試練に遭うとき、

私達は自分の意志により、努力により、主の恵みと祝福を求めるように召されている事を心に留めましょう。

 

?ペテロ1:10だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。

これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。

 

私達はKOSTAである者は救いの召しを受けたと思います。

ある人は自分が確かに神の子として、ある者は献身者として選ばれている事を悟ったかと思います。

確かに主の救いと選びは一方的であります。

しかし、ここで御言葉が言っているのは、召されている事、選ばれている事を確かなものとする為に努力しなさい。と言う事です。


確かに救いは主の恵みによります。

しかし、私達がクリスチャンとしての信仰を確かな者とするためには、

世において勝利する為には、私達は努力しなければなりません。

ヤコブがここで神と格闘したのは、何の為でしょうか?

主の祝福を求めて得る為です。

ヤコブはこのような最大の困難の状況で主の祝福なしにはどうにもならないという状況に陥りました。

そして、主はそのような状況で、ヤコブと戦って下さったのです。


ここで、私達が置かれている立場を考えてみましょう。

ヤコブはアブラハムの孫であり、主の祝福の約束を受け継ぐべき人物でした。

それはヤコブも確かに知っています。

 

創世記 32:13あなたは、かつてこう言われました。

『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」

 

彼は神様の祝福の約束を知っていました。

そして、自分が神の民であることを知っていたのです。

だからこそ、彼はかじりついてでも神様の祝福を求めたのであります。

私達は誰でしょうか?

私達は神の子であります。

皆さん、子の特権は何だか分かりますか?

子の特権は親に求める事ができるということです。

皆さん、子供の時に友達のお母さんに誕生日プレゼントを求めたことありますか?

友達のお父さんにクリスマスプレゼント求めたことあるでしょうか?

そんな馬鹿なことをする子供はいないのです。

何故なら、自分はその友人の母親の子供ではないからです。

何の血のつながりもありません。

子供は自分が誰に求めればいいか知っています。

そして、求めれば与えられる事を知っています。

子供の特権は親に求める事です。

どんなに無茶であったとしても、出過ぎた要求であったとしても、

親に求める権利が、子供にはあるんです。私達はどうでしょうか?


御言葉は言っているのです。

召されている事、選ばれている事を確かな者とする為に、努力しなさいと。

子供としての特権を生かしなさいと主は言われています。

KOSTAの最中はその場所に座っているだけで恵まれたんです。

メッセージを聞いていれば恵まれます。

周りにいるのはクリスチャンばかりです。誘惑もありません。

しかし、世に出たならば、そうではないです。

だからこそ、達は一層の努力をもって主からKOSTAで受けた恵みが

確かなものとなるように、務めましょう。

子供の特権は親に求める事ができることです。

他人は決してできません。私達は何よりも主に祈り求める事であります。

 

ヨハネ14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。

こうして、父は子によって栄光をお受けになる。

 

なぜ、イエス・キリストは私の名によって願うならば、

父なる神様は聞いてくださると言っているか、分かりますか?

それは、イエスは神の子だからであります。

子なるイエス・キリストは、父なる神に求めて、与えられる特権があるのです。

子なる神の特権は、父なる神に求めて、与えられることです。

そして、クリスチャンはイエス様と同じ特権を得たという事であります。

私達はそのことを心に留めているでしょうか?

この特権を用いるべきであります。

主に祈り求める者になりましょう。

ヤコブは彼がそうすべきであると知っていました

だから、かじりついてでも主の祝福を求めたのです。

主は常に恵みを与えてくださいます。

しかし、私達が手放しで何も求めず、何も考えないのに与える事を神様は喜びとなさらないのです。

主は我々が切なる心で求める事を願っておられます。

何故でしょうか?この戦いに負けたのは誰ですか?

不思議ですが、ヤコブが勝ち、神は負けたのです。

そんなことはありえないように思えます。

しかし、ここにはある霊的な真理が隠されています。

人間関係においても言うことができますが、『親は子に負けるのです。』

私達はそれを色んな生活の中で、体験することができます。


親と子供で体力があるのはどちらでしょうか?

財産があって頭が良いのはどちらでしょうか?

勿論親であります。

しかし、子供が親を愛しているのと、親が子供を愛するのと、優っているのはどちらでしょうか?

親が子供をはるかに愛しています。

そして、愛する故に、親は子に負けるのです。

親は子供を愛しているので、子供の言うことを最後には聞かざるを得ないのです。

それは親の愛ゆえであります。

神様が人間に負けることなんて普通はありえません。

神様が人間よりも弱い事はありえないです。

しかし、神は人間を愛しているので、人間よりも弱くなるのです。

神は人間を愛しているので、ご自身が一番弱々しく、惨めな姿で十字架にかかられました。

なぜ神はヤコブに負けたのでしょうか?

ヤコブを愛しているからです。

子供の切なる願いを、親は聞き入れざるを得ません。

私達は神の親心を理解しましょう。

父なる神は私達の困難の時に、試練の時に、求めを聞き入れてくださいます。

しかし、決して我々は、そのような時に人間に求めたり、お金に求めたり、環境に求めたりしてはいけません。

ただ主のみに切なる願いを求める我々になりましょう。


あらゆる問題の解決のために、直面する問題のために、

早天においても、今夜の祈り会においても、切に主に求める我々になりましょう。

 

3つめに、ヤコブに与えられた祝福は一体何でしょうか?

 

創世記 32:26 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、

ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。

 

ヤコブに与えられた祝福は、腿の関節が外れたことでありました。これは一体何なんでしょうか?

 

創世 32:32ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。

ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。

 

彼はもはや足を引きずらなければ歩けない人間になってしまいました。

彼はこれからエサウに会う時に、もしもの時はどうしようと思っていたのでしょうか?

勿論、その場から逃げる事です。

今までヤコブはエサウから逃げてきました。

そして、これからエサウに会う時にどうしようもない恐れの中にいます。

もしも殺されそうになったら、ヤコブは間違いなく逃げようと思ったに違いありません。

しかし、神様はヤコブの腿の関節を外しました。

もはや走る事はできません。

逃げる事はできません。ヤコブは今まで色んな計略と智恵によって富と財産を築いてきました。

彼は本当に頭の良い人物でした。

彼は今回も、もし何かあったら頭を働かせて何とかその場を切り抜けようと思ったに違いありません。

しかし、神はもはやそれをやめなさい。

人間の智恵に頼るのはやめなさい。

ただ主のみに頼るよう求められました。

腿の関節が外されたのは、もはやヤコブが今までの人間の智恵に頼る生き方ではなく、

主を頼って正面から問題に直面する事を願われた故であります。

彼は肉体的には弱い存在になってしまいました。

色々な計画やアイデアも実行できなくなったかもしれません。

しかし、彼はその代わりに単純に、主に頼るように導かれたのであります。

私達は、様々な問題に直面する時に、

どうしても自分の持っている賜物、才能、環境、学歴などをもって計算してしまいます。

今の私ではどうしてもできないと、最初から問題を克服することを諦めてしまうことも少なくないのです。

私達が実際の世の中においてどうすれば、

問題を乗り越えられるのか、それは自分の才能や賜物を見るのではなく、

ただ自分が純粋に主の御手に握られることを求める者になりましょう。

 

実際世の中でも沢山の例をあげることができます。

私は子供の時に将棋を覚えました。

この中で将棋のルールを知っている人はいますか?

兄弟は大抵知っているでしょう。姉妹の皆さんで知らない人は後で聞いてみてください。


私の近所のお爺さんがとても将棋が強かったんです。それで子供の時に対戦しました。

そのお爺さんはものすごいハンデを私にくれました。

自分は飛車角、香車、桂馬、歩なしでやって良いと言って来ました。

何のことか分かりますか?

自分は王将、金将、銀将の3種類だけで戦ってよいと言ってきたわけです。

これならば幾らなんでも勝てるだろうと思っていました。

しかし、結果はどうだったんでしょうか?

自分が勝っていたらこんな話はしません。何度やっても勝てませんでした。

何度戦っても、明らかに相手が不利な状況なのに、勝てないんです。

もし立場が逆ならば、当然自分は負けているんです。

しかし、そのお爺さんが少ない駒であっても、その駒を握った時に、

私よりも遥かに優れた働きをしたんです。その時に悟らされました。

どんな沢山駒があるかが重要なんではなく、誰に握られるかが重要なんだと気付きました。

人間的にみるならば、沢山種類があって、見た目には華々しくて、

そちらの方が強そうに見えます。

私が将棋で相手にした布陣は弱そうだったんです。

しかし、その弱そうな布陣がそのお爺さんに握られた時に、強い存在になったんです。


宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った巌流島の戦いを見てください。

佐々木小次郎は真剣で戦いました。しかし、宮本武蔵は木刀で戦ったんです。

磨き上げられた真剣と木で作った木刀、どっちがつよいんでしょうか?

明らかに真剣です。人を切る力も、鋭さも無い木刀なんです。

しかし、その木刀が宮本武蔵に握られた時に、それは強い存在となったのです。

結局の所大事なのは誰によって握り締められるかなのです。


ダビデを見てください。ダビデが何でゴリアテを倒す事ができたんでしょうか?

見た目は明らかにゴリアテが強いのです。

しかし、石投げ器がダビデに握られた時に、

それはあらゆる剣よりも、あらゆる槍よりも強い武器となったんです。

私達は主の前で道具に過ぎません。私達が自分自身を用いるのではないです。

私達は道具であり、用いるのは主ご自身です。

主が用いられるならば、私達はどんな武器よりも強くなる事ができます。

私達は自分の弱さで嘆くのをやめましょう。

たとえ自分には世の中的には社会的には才能がないかもしれない。

知識や智恵がないかもしれない。

体力がないかもしれない。

しかし、大事なのは主に握られることです。

私達は自らの力ではなく、主に用いられる道具として勝利しなければなりません。

モーセは40歳の時に自分の力で民を導こうとしたのです。

しかし、失敗しました。

80歳の時に無力に思えるモーセが主の御手に握られた時に、奇跡が起きたんです。

 


どのようにしてヤコブやモーセは強さを身に付けたのでしょうか?

創世記 32:31ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」

と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。


申命記 34:10 イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。

主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、

34:11 彼をエジプトの国に遣わして、

ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、

 

彼らは神と顔と顔を合わせて交わりました。

私達は主と顔と顔を合わせる、深い交わりが必要であります。

日々の生活の中で、どれだけ主の御顔を仰ぎ見て暮らしているのか。

その中で、主はご自分の強さを私達を通して顕してくださいます。


私達は未だに弱さを持つ存在であります。

KOSTAで恵まれたとはいえ、これから沢山自分の弱さに直面しなければなりません。

しかし、大事なのはそのような弱さゆえに、前に進むことを止めてはならないということであります。

そして、私達はただ自らの環境や、才能に目を留めるのではなく、

ただ主に握られる道具であることを求めて、主に自らの持っている全てを委ねて、

捧げて生きる我々になりましょう。

神様の働きは献身者が成し遂げるのではなく、宣教師だけが成し遂げるのではなく、

主の御手に握られたならば、どんな人でも神の強力な武器として主の御業を現す器になるのであります。

私達の主に対する信頼と献身が必要とされています。

KOSTAが終わって、私達は自分たち一人一人が主に用いられる器になる事を決意し、進んでいく者になりましょう。

恵みを恵みで終わらせるのではなく、主の強い器として変わっていきましょう。


このブログ記事について

このページは、ヨハン早稲田キリスト教会が2012年2月14日 01:13に書いたブログ記事です。

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