ヨハン早稲田キリスト教会で語られたメッセージの中から幾つかをご紹介。聖書の御言葉の恵みを分かち合いましょう。

主と共に留まり、旅立つ - 火の柱、雲の柱

場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

土曜礼拝2011.4.2

聖書本文:民数記915-23

主題:主と共に留まり、旅立つ

 

みなさん、こんにちは。

今日の本文は民数記9章です。

民数記はエジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地カナンに向かう旅路の物語です

人生を旅にたとえる人がいます。

イスラエルの民が主の命令に従って建設した幕屋の上に、

昼は雲の柱、夜は火の柱が留まり、イスラエルの全ての民に見えるものとなりました。


民数記915幕屋を立てた日、雲は掟の天幕である幕屋を覆った。

夕方になると、それは幕屋の上にあって、朝まで燃える火のように見えた。

916いつもこのようであって、雲は幕屋を覆い、夜は燃える火のように見えた。


この雲は何でしょうか?幕屋の上の雲は父なる神様ご自身がその場にいらっしゃる事を象徴しています。

主なる神様は常にイスラエルの民に伴われる、ということです。


ヘブライ135 神ご自身、「わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない。」と言われました。


神は約束された民と伴われる約束、インマヌエルなる神様の約束です。

そして今や、イエス・キリストの十字架を通して、主を信じた私達一人一人が聖霊なる神様の宿られる幕屋となった恵みに感謝しましょう。

これは何を意味するでしょうか?


一コリント619知らないのですか。あなたがたの体は、神から頂いた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。


とある通り、私達は十字架の血潮により主に購われたものです。

本文によれば、幕屋を立てた日から早速、雲は幕屋を覆ったのです。

つまり、私達がイエス・キリストを受け入れたその日から、その瞬間から、

聖霊なる神様は私達の中に来られ、共に住まわれる恵みが与えられました。

そして16節にあるように、『いつもこのようで』あるのです。

昼は雲の柱、夜は火の柱として、主の臨在は幕屋に留まりました。

イスラエルの民はそれを見ました。私達の人生にも常に主は伴われます。

だからこそ、私達の人生の主権は主にあることを認めなければならないということです。


私達が信じる神様は、いつも共にいて下さるお方、インマヌエルなる神様であります。

それが私達に与えられた救いです。

救いとは何でしょうか?

救いは何か人生を成功的に生きるアドバイスでも、哲学や思想でもなく、

誰が共にいてくれるのか、これが大事です。


先々週の地震の時、まず誰に電話しましたか?

誰か共にいてくれる存在を探したはずです。

人間は、困難な時にこそ、アドバイスではなく、共にいて下さる人を探し求めます。

先週から奉仕をしている被災地の人々もそうです。

彼らは何かアドバイスではなく、共に苦しみ、共に悲しんでくれる人を必要としています。

主はインマヌエルなる神様であります。

主の十字架を通して、私達の罪の苦しみを背負って下さった主ご自身であります。

そのような主をこのような時期にこそ、

多くの人々が信じる機会となりますよう祈っていきましょう。


 

二つ目に、宿営に定められた神の共同体としての行動原理を悟りましょう。


民数記917この雲が天幕を離れて上ると、それと共にイスラエルの人々は旅立ち、

雲が一つの場所にとどまると、そこに宿営した。

918イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、

主の命令によって宿営した。

雲が幕屋の上に留まっている間、彼らは宿営していた。

919雲が長い日数、幕屋の上に留まり続けることがあっても、

イスラエルの人々は主の言いつけを守り、旅立つことをしなかった。


救われた民の行動原理は、一言で言えば、聖霊の導きに従うことです。

雲の柱、火の柱である主の臨在に留まることです。

それは大きく言えば二つです。

その場に留まる事と、その場から出発することです。


しかも、この留まる事と出発することには、何かの法則があったわけではありません。


本文によれば、ある時はその場に一か月も留まり続け、

ある時は一日も満たない日数でその場を出発しなければならなかったのです。

彼らは実に荒れ野の生活である40年間、

このような時に留まり、時に出発する生活を繰り返したのです。

私達がもし、このような不規則な行動の共同体生活を送っていたとしたならどうか、

考えてみましょう。

留まりたいと思う中でも出発しなければならない。

ある時は出発したいと思うのに、いつまで経っても出発する気配がない。

一体何の意味があるのか、そんな先行きの見えない共同体生活に不平不満を言うのではないですか?


しかし、ここに私達は宿営に課せられた主の御旨を悟らなければなりません。

これは一言で言えば霊的な訓練です。

神の共同体、ひいては神の軍隊としての訓練です。

軍隊の訓練において何よりも重要なのは何でしょうか?

それはその軍団の一致です。統率力です。

軍隊を構成する兵士が常に一致団結し、動く時には素早く動き、留まる時にはいつまでも留まることができる団結力、

お互いがばらばらにならず常に一致を保ちながら行動する訓練を彼らは40年間やり続けたのです。


目的があります。

彼らは軍隊としての軍事訓練を受けた訳ではないのです。

生まれながらの兵士もいません。

しかし、彼らは異邦人の強力な軍事力を誇るカナン民族に立ち向かわなければなりませんでした。

彼らがヨルダン川を越え、カナンの地に入り、神の軍隊としてヨシュアと共に勝利できるかどうか、

その要は彼らの団結力でした。

彼らが神の臨在の中で一つにまとまっているならば、

彼らが神の御心に完璧に従順して行動できるならば、彼らは勝利できるのです。


その40年間の訓練の成果は、エリコ城の攻略において明確に現れました。

彼らは主の命令に従い、エリコの城を7日間周り、その城を陥落させたのです。

軍事的な能力ではなく、神の民の一糸乱れない行動がありました。

それは荒れ野における訓練の結果でした。

霊的な軍隊教育です。共同隊意識を形成し、個人主義を棄て去ることです。

それがヨシュア記の勝利をもたらされました。

民数記13章、14章のカデシュ・バルネアの事件を見ましょう。

そこには分裂と混乱がありました。

ある人々はカナンの地に攻め込もうと言い、

多くの人々はやっぱりエジプトに帰ろうと言いました。

これが霊的な敗北です。いつの時代もサタンの策略は分裂と混乱なのです。


軍隊として勝利するためには、一つにならなければならない。

一致しなければならない。個人主義は認められない。


今回、震災を通して、主は多くの事を私達に語っておられるように感じます。

CSルイスは苦しみや悲しみは神の拡声器であると言いました。

日本は個人主義の社会になって来ています。

しかし、そんな中で震災に見舞われ、多くの人々が互いに協力し、助け合わなければならない状況になっています。

私達東京もそうです。

隣人の事を考えない人、自己中心の人々が自分の事だけを考えて沢山の食料品を買い占めするのでしょう。

今こそ、主は私達がこの日本において個人主義を捨て、隣人を自分のように愛し、助け合うように命じているのではないですか?


日本は本音と建前の文化です。

これは一言でいえば嘘偽りの文化です。

なぜなら真実を語らないからです。

クリスチャンのスピリットは真実を語ることです。ごまかさない事です。


私達が本音と建前で生きようとすると、必ずつくらなければならないものがあります。

それが、人間と人間との距離間です。

なぜなら、建前が嘘だとばれない為には距離をおかなければならないのです。

もし人と人との距離があまりにも近づきすぎると、

建前が嘘であること、そして本音がばれて恥ずかしい思いをしてしまうからです。

このようにして、日本人は本音と建前の文化を成り立たせるために、人間同士の距離をある程度引き離さなければならなくなりました。

そして、お互いの本音が分からない人間関係の中で、

しかし人格的な愛や親密な温かさのない関係が築かれるようになったと言えます。


そんな中で心の空白を感じて人々は生きています。

今、私達はイエス様の十字架の意味を知りましょう。

十字架は聖い神と罪深い人間と言うあまりにも大きな距離さえも打ち破り、一つにしました。

私達はイエス様の十字架の愛を知るならば、一つになれないはずがありません。


私達の教会は日本人、韓国人、中国人をはじめとする多くの兄弟姉妹が一つとなって信仰生活を歩んでいます。

これは十字架の赦し、愛なしにはできない事です。

過去の歴史を超えて、葛藤を超えて、一つになるためには十字架が必要です。


このような時にこそ、主の十字架によって私達は一つになりましょう。

個人主義と自己中心の罪から抜け出し、本当に隣人を愛する我々になりましょう。

 

イスラエル民族が課せられた荒れ野の40年の旅を私達はどのようにとらえるか、考えなければなりません。

確かに彼らの不信仰と不従順の故の40年でした。


民数記13:32イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。

「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。

我々が見た民は皆、巨人だった。

13:33そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。

我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。


32節、33節を見てみれば、『見た、見えた』という言葉が4回も出てきます。

彼らは約束の地を見て来たのです。

しかし、どのように見るのか、信仰の視点が大切なのです。

彼らは40日間、カナンの地を見てきましたが、そこで見た者はそこに入ろうとする人々を返り打ちにし、

滅ぼすであろう強い民族、巨人のようなアナク人、城壁や様々な精錬された武器の数々でした。

確かに、当時の異邦人であるカナン民族は武力的に力強い民族でした。

かたやイスラエルの民は戦車があるわけではない、武器があるわけではない。

又定住する土地も要塞も城も持たない、遊牧民族です。

彼らの力の差は歴然としているように見えます。

彼らは約束の地を見ながら、40日の間、目撃した現実に打ちひしがれました。


ここに、私達が気をつけなければならないものがあります。


ヘブライ111信仰とは、望んでいる事柄を確信し、『見えない事実』を確認することです。


世の中には『見える事実』と『見えない事実』があるということです。

見える事実は、この世に見えるあらゆる状況、環境、社会の現実です。

ノンクリスチャン、無神論者、唯物論者はこれが全てだと思います。

見えるものが全てであり、見えない物は信用ならない。

これが世の価値観です。

だから、多くの人々は、世の中の現実に振り回されていきます。


それは『現実』というものが私達をどれほど絶望させ、落胆させる力を持っているかということです。

確かに現実から逃げるのは良くないです。

私達は現実を直視するべきです。

しかし、現実と言うのは、見るものを圧倒する力をもっています。

見た眼を通して、聞いた耳を通して、私達の考えを変え、心を動揺させ、恐れと不安に捕らわれる力を持っています。

そして恐れに捕らわれた心は、現実を客観的に見る事ができなくなります。

そこから信仰は全て失われます。


最近の震災のニュースを見てみれば、分かります。

物理的な被害も大きいのは勿論ですが、東京や北関東においては、心理的な被害がよく見られるんです。

風評被害と言うのがあります。

厳しい現実を見ながら、人々は客観性を失い、恐れや不安に捕らわれて『悪い情報』を流し始めます。

本文にもあります。『偵察してきた土地に悪い情報を流した』とあります。

原発の問題がそうです。東京の水?大人は普通に飲んで大丈夫です。

放射能汚染がありますか?飛行機に乗って韓国や中国に帰る方がもっと被ばくします。

東京ではたばこの喫煙所の近くにいた方がもっと健康被害は大きいです。

しかし、人々は悪い情報に翻弄されて、パニックに陥る傾向があります。

今の時代も、この民数記の時代も同じです。


しかし、ヨシュアとカレブは違いました。

彼らは目に『見える事実』が全てではない。

見えない事実があるということを知っていました。

それが目には見えなくても、生きておられる主なる神様と、神の御言葉であります。

彼らはその約束を確信していました。神の計画と神の約束があります。

それで彼らは『絶対上っていくべきです。必ず勝てます。』と言えました。


私達は現実に圧倒されてはなりません。

2種類のクリスチャンがいます。現実の上に信仰を置く人と、信仰の上に現実を置く人です。

信仰の上に現実を置く人は、どんなに礼拝で恵まれても、どんなに聖書勉強で恵まれて教会でハレルヤアーメンと言っていても、

一歩教会の外に出て、現実の世界を見ると絶望し、落胆します。

つまり不信仰です。信仰生活は教会にいる時だけがかろうじてできます。


しかし、現実の上に信仰を置く人はそうではありません。

周りの状況や環境は苦しい、確かに問題だらけ、絶望、落胆したくなります。

しかし、現実の上に信仰があるので、主の御言葉の約束があるので、落胆しません。

否定的な現実を乗り越えて、聖書の御言葉を通して希望を見出し、喜びます。

現実を見ながらも、信仰をもって感謝を捧げます。


クリスチャンはどのような存在でしょうか?


ガラテヤ 3:11律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。

なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。


そうです。正しい者は信仰によって行きます。

信仰で生きる私達になりましょう。

現実を見ながら、現実に圧倒されて、恐れおののく者ではなく、

信仰で前を向いて進む者になりましょう。


 

サタンは常に、私達の目に映るものを通して我々を誘惑し、混乱させます。

イエス様を誘惑した時もそうでした。


マタイによる福音書4:8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、

4:9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。


サタンは、我々に色々なものを見せます。

今は情報化時代です。インターネット、テレビ、あらゆるものを通して私たちを誘惑します。

世界中の映像が手に入ります。

しかし、全てのものを見たからと言って正しい判断ができるのか、

見れば見るほど頭が良くなるのか?そうではありません。

彼らは見れば見るほど、目に見えない生きておられる神ご自身を忘れました。

神の御言葉を忘れました。

見える事実に心奪われて、見えない事実に目を向けることができなかったからです。


だからこそ、この荒野の40年の旅には意味があります。

そこには目に見えるものは何もなかったのです。

豊かな食べ物も、豪華な城も町も何もありませんでした。

ただ主の臨在を示す、雲の柱と火の柱のみが彼らに見えました。

これが信仰の訓練です。

この世の現実に目を向けないで、ただ主のみを見て歩む訓練です。


だから、この荒野の40年は苦しみであると当時に、祝福でもありました。


実際、彼らは40年後に約束の地に入りました。

実際に乳と蜜の流れる土地を手にして、豊かになったのです。

そして豊かになって、目に見える豊かさという現実の中で、主を忘れて、また堕落が始まりました。

私達クリスチャンにとって何が幸いでしょうか?

何が祝福でしょうか?

豊かであっても、貧しくても、ただ主のみを見つめて歩むことができる信仰こそが、

祝福であることに感謝しましょう。


日本は特に豊かです。その豊かさや科学技術、文明の繁栄は地震と津波、原発により、崩れさりつつあります。

このような時こそ、私達は目に見える現実に動揺せずに、主を見上げて歩む者になりましょう。


 

今、私達は震災という危機にさらされています。

神の共同体の真価が試される時であります。

先週、自分の住んでいるマンションに帰った時に、中国の人達が大きなスーツケースをいくつも持ってマンションから出ていく姿を見ました。

ああ、彼らは日本を出て中国に避難するのだろうと思いました。

彼らを非難するつもりはありません。

韓国や中国ではかなり大きく震災のニュースを報道しているようです。

家族から国に帰って来るようにとの電話が沢山あると聞きました。

そんな中でも私達の教会では、日本で信仰を守り、共に日本の為に祈ってくれる韓国部や中国部の兄弟姉妹がいます。

それどころか、被災地にボランティアにまで行きます。

世の中では考えられない事でしょう。心から感謝せざるを得ません。

牧師先生は、問題がある時に、それを避けて通るのではなく、問題の中心に飛び込んで行くのがクリスチャンスピリットであると仰いました。

まさに私たちの教会はそのように今動いています。


日本で福音を伝える使命がなければ、日本を愛する心がなければ、どうして日本に残る必要があるでしょうか?

韓国で信仰を守ることも当然できるはずなのにです。

出発することよりも、その場に留まることがもっと難しい事があります。

使命を持っている人だけが、その場にとどまる事ができるのです。


今、福島原発で消化活動をしている人々もそうです。

彼らは命を掛けて消化活動しています。

私達がやらなければ日本が滅んでしまう。

その使命感ゆえに、自らの命を削りながら戦っています。

韓国部の兄弟姉妹もそうです。訓練された人々が、使命を持っている人々が現場に留まるのです。

日本に留まり、日本の為に祈ります。

また、行くべき時には直ちに出発し、被災地に行って献身的に奉仕しています。


今日の本文のとおりです。留まる時には留まり、出発する時には直ちに出発する。

我々はイスラエルの民のように今、動いているところです。


私達はどうでしょうか?私達は本当に日本を愛しているでしょうか?

何の為に日本に留まり、日本で何をするべきでしょうか?

日本に生れた私達こそが、本当にこのような状況、試練や困難の中で、

主が示された場所に留まり、祈るべきものであります。


民数記923彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。

彼らはモーセを通してなされた主の命令に従い、主の言いつけを守った。


イスラエルの民を動かす原理は、主の命令でした。

これは今の時代においては、主の命令は聖書の御言葉そのものであります。

世の人々は周囲の様々な意見、世のうわさ、経験や感情によって行動しています。

しかし、私達は常に、主の御言葉に耳を傾けなければなりません。

私が行く所に主が伴うのではありません。

主が行かれる所に、主がおられる所に私達が共にいなければならないのです。

クリスチャンは主と共に留まり、主と共に旅立つ存在であります。


日本において、クリスチャンには大きな使命があります。

信仰の創始者であるアブラハムは異邦人のカナンの地に留まりながら、ソドムとゴモラの為に祈りました。

ソドムの町に義人10人がいれば、主はこの場所を滅ぼさないと主は祈りの中でアブラハムに約束されました。

アブラハムにはソドムの為に執り成しの祈りをする使命がありました。

神の御使いらもアブラハムの祈りを期待して、彼にソドムに対する裁きの計画を明らかにしました。

クリスチャンは日本の為に祈る使命があります。


一テモテ21そこで、まず第一に勧めます。

願いと祈りと執り成しと感謝をすべての人々の為に捧げなさい。

24神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。


主がこのような状況の中で日本の魂が救われることを、民族が主に立ち返ることを望んでおられると信じます。

私達が起きて、光を放つならば、神はこの日本をまだ見捨てられない事を信じます。


このブログ記事について

このページは、ヨハン早稲田キリスト教会が2012年2月 1日 21:14に書いたブログ記事です。

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