ヨハン早稲田キリスト教会で語られたメッセージの中から幾つかをご紹介。聖書の御言葉の恵みを分かち合いましょう。

鷲のように翼を張って上る

場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

土曜礼拝201012.4

聖書本文:イザヤ書4027節-31

主題:鷲のように翼を張って上る


イザヤ書本文より 

40:27ヤコブよ、なぜ言うのか

イスラエルよ、なぜ言するのか

わたしの道は主にされている、と

わたしの裁きは神に忘れられた、と。

40:28あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神

地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく

その英知は究めがたい。

40:29疲れた者に力を

勢いを失っている者に大きな力をえられる。


ヤコブはどのような人生を歩んだ人でしょうか?

ヤアコブはヘブライ語で「かかとをつかむ者=人を出しく者」を意味するとされます。

それは約聖書のヤコブ(イスラエル)が、兄のかかとをつかんだまま生まれ、兄を出しいて長子の祝福を得たことに由来します

彼は人間的には非常に狡猾な人だったのです。

兄であるエサウから長子の権利を巧みに奪い、そして父イサクからの祝福もリベカとの計略により奪い取ることに成功しました。

しかし、彼はエサウに命を狙われ、叔父であるラバンのもとに住んでいる時に様々な苦労をすることになります。

ヤコブよりも更に狡猾なラバンによってただ働きをすることになるからです。

そして、常に彼の心の中にはエサウの確執という解決できない問題があったのです。


また、彼は12人の子どもに恵まれる中で、もっとも愛する11番目の息子ヨセフを兄達の計略により失いました。

彼はその名前のとおりに非常に狡猾で頭のいい人間でしたが、

ずる賢い生き方をする分、彼はずる賢い叔父、また自分の息子たちにも騙されて多くの人生の痛みを背負って生きてきた人です。


しかし、彼はある一つの出来事を通して彼の本質は変化するようになります。

ヤボク川での出来事です。

創世記3223節-33節を一緒にお読みしましょう。

創世記2:23 その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。

32:24 皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、

32:25 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。

32:26 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。

32:27 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」

32:28 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、

32:29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」

32:30 「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。

32:31 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。

32:32 ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。

32:33 こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。


彼は、神と真剣に向き合い、格闘することを通して本質的な変化を体験するようになります。

26節には彼の腿の間接が外れたとあります。

腿の間接は体の足の部分のもっとも奥深い部分です。

もっとも奥深い部分が神によって打たれてはずされたのです。

これは何を意味するのでしょうか?

彼の信仰者としての本質的な部分が変えられたということです。

そして、この後に彼は今まで一番の心の悩みであった兄エサウとの問題を乗り越えることになりました。


 

彼は多くの苦しみと痛みを通して成長し、アブラハムの子孫として名前を残すことになった人物です。

アブラハムのような信仰が見られるわけでもない、イサクのような従順にも見えない。ある意味、一番私達によく似ている人間くさい人物に思われるかもしれません。

しかし、主はヤコブをイスラエルに変えて、祝福の源としました。


彼はしかし、最後には失われていたと思われていたヨセフが立派な姿になって成長した姿で涙の再会をします。

そんな事は誰が予想したでしょうか?

このように主の英知は極めがたいものがあります。


なぜ、私達は落胆してはならないか、落ち込んではならないか。

私達は極めがたい主の英知を信じて、人間的な考えに陥ってはならないのです。


40:27ヤコブよ、なぜ言うのか

イスラエルよ、なぜ言するのか

わたしの道は主にされている、と

わたしの裁きは神に忘れられた、と。


ソンソルナムさんが日本の為に来年は1年間捧げてくださるそうです。

これは何という恵でしょうか?

カーネギーホールで演奏する人。これは主が私達を応援してくださっている証拠でもあります。

このような機会に私達は否定的な場面に陥っている時間ではありません。


今日の本文を見てみれば、ヤコブ、つまりイスラエルという人物が落胆し、失望しているように思える記述から始まります。

ここでいうヤコブは、イサクの子どもであるヤコブというよりもむしろ、

アブラハムの子孫であるイスラエル民族である神の民、

神の子どもたち全般を指す言葉です。

つまり、ここでいうヤコブも、イスラエルも霊的なアブラハムの子孫である私達であると言うことができます。


私達も信仰によってアブラハムの子孫になりましたが、

私達は今もなお人間くさく、

ずる賢いところが抜けきらないで悩み苦しんでいます。

しかし、主はそのような私達を変えようとしていることを信じる必要があります。


先週からゴスペルシンガーの人達が賛美をしてくださっています。

みな実力あるシンガーですが、それは実力があり、歌がうまいから感動するのでしょうか?

それもあるでしょう。しかし、私達はそのような賛美をするゴスペルシンガー達の歌に秘められた、人生の苦しみ、悩み、葛藤を理解しながら、もっと恵まれるのではないでしょうか。


ノアラムシンガー:偉大な父親の子どもとして生まれました。忙しい父親に反抗し、また神の愛が理解できなかったと言います。

ネリシンガー:失われた父親の悲しみがあります。

ソンソルナム演奏者:カーネギーホールで演奏する人が3,4人の前で演奏する経験があります。

多くの人々が経てきた苦しみがあり、悩みがあります。その中で成長し、用いられる人になりました。

 


今日の本文で、鷲のことをたとえにあげています。なぜ鷲の話をしているのか、それは鷲独特の性質があるからです。

鷲は空の王者とも言われている、非常に立派な鳥です。

「鷲」は力を新たにする象として使われています。

詩編103にも「鷲」と出てきます。


詩篇103:5長らえる限り良いものにち足らせ

鷲のような若さを新たにしてくださる。

みなさんは,鷲が飛んでいる光景を見ますが、これらの鳥は最も美しい鳥に見えるでしょう。

鷲は鳩のように羽根をばたばたしません。

鷲は上に上って風を待つのです。崖の上にいて、そこから飛びます。

そこから滑空していく。

そして、上昇流を探してスと上っていくのです。

いつも、その目は獲物を探しています。

鷲は風に立ち向かっていかないのです。風の上にっています。

鷲は神秘的で美しく、空で威あるもののように飛んでいます。

また、分ったことは、多くの鷲は50年以上生きるのです。

その中で多くの鷲達は、落ちみ、落ちする時期を通過するそうです。

なぜなら30くらいになると、翼がけ落ちてしまうからです。

まず、短い羽根が落ちていって。そして、まもなくこの鷲は飛べなくなります。

その時点で、鷲のアイデンティティがなくなってします。丘の上にのようにきまわることしか出なくなからです。

ものすごい高い天空に上る事が出ていたその勇な姿が、地に落ちて、のように、地面をくことになるのです。

この時期、ショック症を起こし、食べることが出なくなったり、拒食症のようになってしまうのだそうです。
そして、ある鷲はそれで死んでしまいます。その外わる時に、は鷲の側がわる時期でもあるのですが、プライドが崩されて、まさにこれは試練の時になります。

すなわち、外わる時、何か鷲の側、面に化が起きているのです。


そして、約3か月後に、時には長くなったり、短くなったりするのですが、この羽根がもう一度伸び始めて、羽根が回復して飛ぶことが出るようになります。しかし、その飛び方は以前よりもわります。


今度は、知ちた飛ぶことが出るようになります。困難な時を乗り越えてた知があってこそ、 今までと異なる飛び方をします。

経験あふれる飛び方をします。

今度飛ぶ時は、風にして、敏感な、細な飛び方が出るようになります。

以前には理解出なかった微細なことも、理解出るようになります。

風に合わせて、自分の動く方向をつけることも以前とは格段に違って飛べるようになるのです。


これが鷲のように翼を張って上ることです。鷲のような若さが新たにされることです。


今回2週間のライブが行われています。このような機会を通しても、ただ私達が一生懸命伝道してそれで終わる時期ではなく、私達自身が鷲のように新たになる期間となりたいと心から願います。

沢山の人々が教会に来たとしても、私達自身に何の魅力も霊性も、愛もないならば、どうして人々は救いに導かれるでしょうか?

人々は伝道したその人をまず見ながら、その人を通して神の愛を体験するようになるからです。

私達はヤコブがイスラエルに変わった変化、そして鷲が苦しみを乗り越えてもっと力強く飛ぶことができる成長を遂げたいと願います。


私達自身にも鷲のように飛べなくなる時があるかもしれません。

誰でもそういう時期があります。

しかし、そのような時こそがまさに私たちの成長のチャンスです。私達は沢山の教会に導かれる人々が主の弟子として、困難と試練を乗り越える働き人になってほしいと願うのです。

だからこそ、主は私達に苦しみと困難を成長への糧としておあたえになります。


哀歌3:19苦汁と欠乏の中で

貧しくさすらったときのことを

3:20決して忘れず、覚えているからこそ

わたしの魂は沈み込んでいても

3:21再び心を励まし、なお待ち望む。

3:22主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。


さて、この鷲が飛べなくなった時、どこへ行くのかと言いますと。
山の岩場を探さしてそこへいくのです。

そして、日の光がたる所にいきます。
そして、多くの時、小川のほとりです。そして、その岩の上で待ち望むのです。
太陽がたって。待ちます。鷲は、羽根がなくても餓死してしまうことはありません。

岩の上に座っている鷲を見た時に、大きな翼で飛んでいた鷲が食物を落として置いて行くからです。

ですから、鷲が死ぬのは食糧がないからではなく、自分のアイデンティティが失われたことにより、立ち直れなくなった鷲が死ぬのです。

だからこそ、私たちにとって必要なことは、私達が主の前でどういう存在であるかが大切です。


だからこそ、私達は主を待ち望む者になりましょう。

鷲が岩の上で食べ物を待ち望み、太陽の光を待ち望むようにです。


哀歌3:25主に望みをおき尋ね求める魂に

主は幸いをお与えになる。

3:26主の救いを黙して待てば、幸いを得る。

3:27若いときに軛を負った人は、幸いを得る。


私達はキャンパスに出ていけば、様々な人に出会います。

疲れている、重荷を負っている人、外見的には勇士のように思える人もいます。

しかし、若者も倦み、勇士もつまづき倒れるのです

この世において最も強い存在は、主に望みを置くクリスチャンであります。


残された一週間、大きく広く見える世の中においても、私達は主に望みを置き、鷲のような若さを新たにして力強く福音を述べ伝えていく私たちになりましょう。


イザヤ書40:30若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが

40:31主に望みをおく人は新たな力を得

鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、いても疲れない

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このページは、ヨハン早稲田キリスト教会が2012年1月31日 06:55に書いたブログ記事です。

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