ヨハン早稲田キリスト教会で語られたメッセージの中から幾つかをご紹介。聖書の御言葉の恵みを分かち合いましょう。

最善の選択とは?

場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

日時:主日2時礼拝2010.3.20

聖書本文:創世記13章8節-18

主題:最善の選択とは?

 

皆さんこんにちは。

今日は創世記13章の箇所であります。

先週まで、ビジョントリップを通して多くの恵みがあったことに感謝します。

韓国のリバイバルしている教会を見ながら、いかにしてこのような祝福が韓国に訪れたのか色々考えさせられました。

何よりも言えるのは、これは人間の力の業でも、知恵の業でもなく、

神様が働かれたその足跡がリバイバルであるということです。

そして、主なる神様はご自身の大きな御業を成し遂げられる為に限られた人物を握りしめて御業を行われるということも見ました。

プサンのスヨンロ教会のチョンピルド先生もそうであり、ミョンソン教会の金サンワン先生もそうです。

彼らは主によって握りしめられ、霊的に祝福された韓国の中でも主が中心的に用いておられる器であるという事を実感しました。

しかし、このような主の働きは歴史の中で常に繰り返されています。

主はいつも、その働きの根本的な法則や原則を変えることはありません。

祝福される人には祝福される人なりの理由があり、祝福されないのには、それなりの理由があります。

聖書において、主なる神様が選ばれ、

祝福の源とされたアブラハムと神様との間にどのような交わりがあったのか、

今日の本文を通して見ていきたいと思います。

そこには霊的な法則が主によって語られています。


創世記13:14 主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目をあげて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。

主はアブラハムに言われます。「さあ、目をあげなさい」これは何を意味するのでしょう。

アブラハムはつい先ほどまで、今まで人生を共に歩んできた甥のロトとの別れを経験しました。

アブラハムの人生を考えてみるならば、彼は主の偉大なる計画の為に、

今まであった様々なものごとに対して別れをのべなければなりませんでした。

カルデアのウルを離れる時に、生まれ故郷に別れを告げなければなりませんでした。

自分の親、親戚に別れを告げなければなりませんでした。

そして、カナンの地まで付いてきたロトともまた、別れを経験しなければなりませんでした。

主はご自分の偉大な計画の為に、何を自分にとどめておくべきか、何から自分が離れるべきなのか。

それを示されます。



ペテロは自分が主から呼ばれた時、すべてを捨ててイエスに従ったとあります。

そして、「目をあげなさい」と言われるのです。

私達の生活はどうですか?私達の人生はある意味、目を上げることができない人生を送っています。

毎日、自分の足元ばかり見ているのが私達の歩みではないでしょうか。

毎日自分のもとに押し寄せてくる大量の仕事の山があります。

こなさなければならない課題があります。

忙しいメールのやりとりがあります。

そんな中で、私達は目を上げることができないで、自分のすぐ足元しか見れていません。

私達の関心の領域も狭いのです。

現代の若者は携帯電話世代、携帯で何でもできる。

半径3メートル以内のこと以外には関心がないなど言われます。

個人主義の時代です。自分のことしか考えられない狭い生き方です。

自分の筍、自分の部署、自分の家庭。そんな狭い中で一杯一杯になっている私達はどうして、目をあげて生きていると言えるでしょうか。

もう一度、私達は目をあげて東西南北を見渡さなければならないのです。


先週までビジョントリップに参加しながら、久しぶりに目をあげて東西南北を見渡す機会になったと感謝しています。

日本での働きの現場は離れましたが、世界にこのように多くの祝福された教会、

またその教会が作られるのに用いられた主の僕たちを見ながら、

再び視野を広げる恵みがありました。

もっと世界に目を向けて、広い視野をもって多く学ばなければならないと思いました。

私達の関心がいつまでも、自分の筍、自分の家庭、自分の仕事場のことだけであるとするならば、

それでも私達は自分の個人的な生活、自分の満足の為の人生ならば、何も不自由しないかもしれません。

今まで蓄えてきた手に入れた知識と知恵で、何とか人生やっていけるかもしれません。


しかし、私達が偉大に主に用いられたいと願うならば、私達は自分の狭い領域から目をあげて、

この世界を見渡さなければならないのです。主は言われます。目をあげて『あなたがいる場所』から東西南北を見渡しなさい、と言われます。

『あなたがいる場所』『わたしがいる場所』とはどこでしょうか。

自分自身が現在置かれている霊的な状況です。ある人は筍長、ある人は筍員、ある人は先生の立場にいます。

また、私達はヨハン早稲田キリスト教会という主の祝福された教会で信仰生活を送っています。

韓国のビジョントリップに行けば、私達がヨハン教会の兄弟姉妹であるという理由で、

金圭東牧師先生の教会の信徒だという理由で、本当に手厚い歓迎を受けました。

 

本当に感謝なことです。つい先日の韓国の国民日報にも、ビジョントリップの記事が出ました。

K兄弟はインタビューまで受けてのりました。

いかに、自分のいる場所が祝福された場所にいるのかということです。

今、私達がどのような場所にいるか知っているでしょうか?

それは、本当に日本でリバイバルを期待される教会にいます。そこで信仰生活を送っています。

私達はそのような霊的な高みの中にいることを知らなければならないのです。

 

ロトはアブラハムから離れて行きました。

彼はアブラハムのいる場所から離れて、ヨルダン川流域の低地一帯に移って行ったのです。

低い土地です。ソドムに近い、あまりにも霊的なレベルの低い土地です。

そこには完全なエゴイズムがあり、個人主義があり、快楽主義がある土地です。

ロトは自ら自分のレベルを下げる選択をしました。

アブラハムと共に、主なる神と共に人生を歩むという恵みの高嶺から降りて、快楽とお金、物質が渦巻く低俗な世界へと降りて行ってしまいまいた。

私達が今いる場所、当たり前のように通っている教会は、そのような場所ではありません。

自己中心を離れ、個人主義を離れて、

兄弟姉妹の為に、失われた滅びゆく魂の為に悩み、祈り、またこの日本の救いの為に祈り、福音を述べ伝える教会にいます。

そのような恵みの場所にいることを感謝しましょう。

我々はロトのように恵みの場所を離れて低俗な土地に移ってはならないのです。

そして、今、私達は日本の福音化を考える、そのような場所にいます。

 

もし、私達が教会に通わなかったとしたら、イエス様を信じなかったとしたら、どうでしょうか?

どれだけ自分の隣人の為に祈ったでしょう。彼らを愛したでしょう。

ましてや日本の民族の救いなど、考えるはずもなかったはずです。

ソドムに住んでいる住民は考えしません。恵みの場所にいるからこそ、考えることができます。

祈ることができます。そのような霊的な恵みの高嶺にいる私達は東西南北を見渡すことができます。

これからまた4月を迎えます。もう一度広い視野をもって私達の周囲を見渡し、祈るものになりましょう。

目を上げることはある意味、祈りをも意味します。


詩篇121:12:目をあげて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を作られた主のもとから。


主に用いられたいならば、自己中心の狭い領域から抜け出して、目を上げて祈り、人生のビジョンを抱きましょう。

 


2番目に、主の素晴らしい約束が語られます。

13:15見える限りの土地を全て、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。13:16あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。

 

見える限りの土地をアブラハムに与える、とあります。

彼が見える限りの土地とは、一体どれほどの広さだったんでしょうか。

おそらく彼は、ロトと別れた時に、ある程度の高さのたる高地か、山にいたのでしょう。

だからこそ、彼はその山から、その高台から東西南北を見渡すことができたのです。

ここで、土地に関する霊的な法則があります。


主は見える限りの土地をすべて我々に与えるということです。

つまり、見えない土地は与えないということです。人によって、見える限りの土地の広さは違うんです。


わたしは大学時代にサークルでパラグライダーをやっていました。

毎週日曜日は長野か栃木の山に飛びに行っていました。

空を飛べることは面白いことです。

勿論、危険もあります。パラグライダーを上手く飛べる秘訣は、いかにして上昇気流を捕まえて、上昇気流に乗れるかということなんです。

普通では5分で地上に降りてしまうところを、2時間、3時間飛び続けることができます。

何より、上昇気流に乗って自分が飛び出した高さよりもはるかに高い所へ行く事ができます。

一度、山から飛び出してから、上昇気流に乗って1000メートル高度を上げることができました。

そうるすと、もはや自分が最初にいた場所は点のようです。そして、今まで見えなかったはるかかなたにある山々が見えてきました。

長野で飛んだ時は高度を上げると、日本アルプスが見えてきました。新潟で飛んだ時は、高度を上げるにつれて日本海が見えてきました。

そのようにして、私達がいる場所が高くなればなるほど、見える限りの土地は広がるということです。

つまり、この土地は私達の霊性の高さです。

『恵みの高き嶺』という新聖歌もあるでしょう。私達は恵みという霊的な山を上らなければならないのです。

モーセはシナイ山の頂上で主なる神と出会いました。

ペテロはヘルモン山にて光輝くキリストを見ました。

恵みの高嶺に上ることで、見えてくるものがあるのです。それはその人の才能ではない、

学歴や賜物によるのではない。私達が恵みを受けて、霊的な高嶺に上ることを通して、

今まで見えてこなかった霊的な真理、御言葉の悟り、進むべき道、ビジョンが見えてくるという事です。

信じますか?

主が、アブラハムに『見える限りの土地をあなたにあたえる』というメッセージは、

そのように意味深いものです。

ロトはヨルダン川流域の低地に降りて行きました。高嶺もない、低いソドムの土地では見えるものは何もないです。

ただ快楽にまみれたソドムの人々、自らを守る高い城壁だけが見えるのです。

何の恵みがあるでしょうか。だからこそ、私達は霊的な高嶺に上らなければなりません。

恵まれなければなりません。恵まれなければ見えるはずのものも見えないのです。

忙しく動き回るよりも前に、まず恵まれなければなりません。

聖霊に満たされなければならないです。

そして私達は、恵まれた分だけ、霊的な領域は広がり、増し加えられるということを信じましょう。

 


3つ目に、主は実際的な行動を持って信仰の歩みをするよう命じました。


13:17さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。


この土地を縦横に動き回りなさい。実際的な行動を起こさなければなりません。

アブラハムは寄留者でした。つまり、この土地は、彼のものではないのです。

しかし、その土地がまるで自分のものであるかのように、自分の庭であるかのように、

縦横無尽に歩き回りなさいと命じているのです。


ヨシュア1:3モーセに告げた通り、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。1:4荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。


主は、約束しています。『わたしはそれをあなたに与えるから』

4月から、キャンパスが始まります。新しい季節が始まります。私達はこの世の中の誰よりも遣わされたキャンパスで、職場で、家庭で動きまわらなければなりません。

主が私達に与えて下さった土地はどこでしょうか?この日本全土であると信じます。ビジョントリップで多くのリバイバルしている教会を見ました。

スヨンロ教会は当時立てられた時、プサンの海岸近く、何もない土地でした。しかし、その教会が立てられ、先生の祈りにより、その土地はプサンの銀座と呼ばれる最も人々が住みたい土地に変わりました。

ホサンナ教会も空地ばかりの土地に教会がたてられていました。

しかし、その周囲には多くの高層マンションが次々と建設工事中でした。

このようにして、主は遣わされた一人のクリスチャンを通して、その土地を祝福し、その土地を神様のものに変えようとしておられます。

主は私達に土地を与えたいと願っておられます。私達の行く場所は大学のものでしょうか。会社のものでしょうか。日本のものでしょうか。

いいえ、主のものであります。主の主権、主の領域だと信じ、大胆に主の福音を宣言する我々になるよう祈ります。


13:18アブラムは天幕を移し、へブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。


アブラハムは天幕を移しました。そして、ロトと別れて自らの主の働きの中心地を定めました。そこが、へブロンにあるマムレの樫の木です。聖書を見れば、アブラハムはマムレの樫の木を自らの拠点としました。


創世記12:67:アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」

創世記18:1 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。

 

マムレの樫の木はどのような場所でしょうか?

そこで、常に主はアブラハムに語りかけました。

主が現れる場所、主が語られる場所、祈りを捧げる場所。つまり礼拝の場所です。

私達は縦横に動き回りながらもどこを中心にしなければならないでしょうか。

勿論教会もあるでしょう。ある人はサランバンであり、小さな祈り室かもしれません。

主と出会う場所が全ての働きの中心にならなければなりません。

祈りがすべての働きの中心にならなければなりません。

スヨンロ教会のチョンピルド先生は、どんな働き、訪問や伝道にも増して毎朝3時間祈ることを使役の最優先事項としました。

祈りによって問題を解決し、乗り越えてきました。

日本という霊的に荒れた土地を主のものとすることは容易ではないです。

だからこそ、私達はマムレの樫の木に集まらなければなりません。

ビジョントリップに行って感じたのは、教会毎に様々な個性もあり、特徴もあります。

しかし、どんな外面的な違いはあっても、祈りによって支えられている教会こそがリバイバルしているということです。

これは、韓国だけにとどまらず、日本において、この世界のどこでも同じ霊的な法則であります。

新しい季節に大きな主の御業が起こされるよう、常に祈りによって備えていきましょう。

このブログ記事について

このページは、ヨハン早稲田キリスト教会が2012年1月23日 00:48に書いたブログ記事です。

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