ヨハン早稲田キリスト教会で語られたメッセージの中から幾つかをご紹介。聖書の御言葉の恵みを分かち合いましょう。

ラザロの復活ーヨハン早稲田キリスト教会

場所:ヨハン早稲田キリスト教会,ヨハン教会

土曜礼拝2009.7.11

聖書本文:ヨハネによる福音書1117-273844

主題:信じるならば、主の栄光を見る


おはようございます。今日の本文はラザロの復活の場面であります。イエス様はヨハネの福音書において7つの奇跡をおこなわれています。その中の7つめの奇跡がラザロの復活であります。ラザロは病気で死んだとされています。その病気は何であるか、分かりません。しかし、妹のマルタ、マリアの兄であるということを見ても、彼の死はまだ早すぎる死であったと言わざるを得ません。とてもその人生を最後まで全うしたとは言えない、早い死でした。このようにして、人間にとって死は必ずやってくるものであり、またいつやってくるかは分かりません。そしてどうしても人間が避けることができないものが死であります。ベタニアにおいては、ラザロの早すぎる死を悼む人々が弔問にきていました。そこに、イエス様が来られました。

私達は今日のラザロのような魂を見る事ができます。頑なで、動こうとしない魂です。そんな魂に対してイエス様はどのように働かれたのか、見て行きましょう。

ラザロは一家の大黒柱でした。彼の死により、マルタとマリアは家の生計をどう立てていけば良いのか、これから二人でどのように生活していけば良いのか、悲嘆にくれたに違いありません。そのような嘆きと悲しみの中で、マルタはイエス様に対して言いました。

1121 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」1122 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。

マルタはイエス様がどのようなことを今までされてきたのか、十分に知っていました。イエス様はらい病患者をいやすことができる。イエス様は盲人の目を開くことができる。5千人にパンを食べさせることができる、そのようなお方であると聞き、信じていました。

そして、もしラザロが死ぬ前にイエス様が来て下されば、必ず癒して下さったと確信していました。しかし、死んでしまったらもう終わりだと思っていました。だから、死んだラザロを前にして、イエス様に対して出た言葉は、「もし、ここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」でした。

つまり、もう手遅れでした、残念です、というものです。私達はマルタの信仰を見ることができます。彼女は確かにイエス様を信じていました。病気を癒し、奇跡をおこなう事ができるという信仰です。しかし、その信仰は十分ではありませんでした。死んだラザロを今よみがえらせられるという信仰にまでは至らなかったからです。そこから落胆とつぶやきの言葉がイエス様に対して出ました。

私達はどうでしょうか?私達もイエス様を信じています。しかし、そのお方の力、能力を制限したままでイエス様を信じているならば、私達は信仰生活の中でマルタのような発言がたくさん出てくると思います。それは、私達の信仰の足りなさゆえに出てくるつぶやきの声です。私達は様々な状況に直面し、落胆し、つぶやきます。しかし、信仰があれば希望の言葉を発することができます。マルタの信仰はただのつぶやきで終わりませんでした。

1122 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。

マルタは、イエス様に対して希望を抱いていました。私達はどうでしょうか?常に主に対して希望を抱いていますか?困難な状況においても、主は何でもできると信じる者になりましょう。マルタは最初感じました。もう手遅れだと、そうでしょうか?信仰において、イエス様の前で『もう手遅れ』はないということです。今私達が置かれている状況は手遅れな状況に思えるでしょうか?いいえ、主にあって回復不可能なことはありません。もう手遅れだということもありません。どんな状況からでも私達はやり直し、立ち上がる事ができます。


我々は本当に主の御言葉を御言葉通りに信じているのか、ということをもう一度吟味しなければなりません。日本の宣教が実を結ばなかった原因は、御言葉通りに信じなかったからです。私達は何の為に繰り返し聖書を読むんでしょうか?私たちがそれを本当に信じているか、確認するためです。私達はいつの間にか心に霊的な覆いがかけられて、主の御言葉を御言葉通りに信じられなくなっている体質があるかもしれないのです。御言葉に対する期待感がなくならないように気をつけなければなりません。

 

崔イスン長老の証しを聞けば、どん底と言われる絶望的な状態にも置かれた事がありました。もっと早く主が助けて下されば、大丈夫だったのに。そんなことはありません。主はどんなどん底の状態からでも救い出し、回復させて下さります。主の力を信じる者になりましょう。

1123 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、

1124 マルタは「終りの日の復活の時に復活することは存じております。」といった。

また、主はその奇跡を終わりの日に行われるのではありませんでした。主は終わりの日ではなく、まさに今日ラザロを復活させようとしておられたのです。マルタはそこまでは信じていませんでした。

 

1125 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

1126 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬ事はない。このことを信じるか。

1127 マルタは言った。「ハイ主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

主は私達が主と交わる中で、一つ一つ信仰を増し加えて下さるのです。マルタの信仰は、最初主が来られてももう手遅れと言う嘆きと落胆の信仰でした。しかし、主が何かをなして下さるという希望の言葉が出ました。また、イエス様が復活の言葉を口に出した時に、終わりの日での復活は信じました。しかし、イエス様が自らが復活であり、命であると言われると、イエスは神の子メシアであるという信仰の告白が出ました。主との対話とは、すなわち祈りです。祈りの中で主と交わる中で、私達の信仰を引き上げようとしておられます。

イエス様は死という避けられない存在、人々が必ず直面しなければならない存在を前にして涙をながされました。そしてイエス様はラザロを生き返らせようとします。しかし、その前に私達に命じることがあります。

11:39 イエスが「その石をとりのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが「主よ、4日もたっていますから、もうにおいます」と言った。

11:40 イエスは「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」と言われた。

のであります。イエス様の人々に対する言葉は何だったでしょうか?「その石をとりのけなさい」です。つまり、これは復活したラザロが出てこられるように石をとりのけなさい、ということです。イエス様は奇跡を行ってくださるお方であります。しかし、条件があります。私達は主を信頼しなければなりません。主を信じるとは、ただ心で信じることではなく、つまり、石をとりのけることです。主は復活の奇跡をおこなう前に「石をとりのけなさい」と言われました。何のためですか?もちろん復活したラザロが出てこられるようにするためです。しかし、イエス様は死者の復活ができて、石をとりのけることができないお方ではありません。石をとりのけることは私達ができることだから、私達にやらせようとしておられます。なぜなら、石をとりのけることは、信仰の表明、信仰の行いだからであります。主は私達に信仰を願われます。それは心で信じ込むことではありません。主を信じて行動することです。大切なのは、御言葉通りに信じて、御言葉通りに行動することです。主は素晴らしい奇跡をなさります。しかし、そのために人間がなしうる努力は最大限しなければなりません。主の奇跡を体験したいでしょうか。人間がなしうる努力は最大限することであります。人間ができることを最大限やりとげた後で、主に委ねてみて下さい。主は素晴らしい御業を起こして下さると信じます。

もう一つ、石を取り除けることは、周囲の環境、状況だけではなくて、心の中の石を取り除けなければならないことです。マルコによる福音書5章において、死んだヤイロの娘をイエス様が生き返らせる奇跡を行う時の人々の反応を見ればわかります。

マルコ 5:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 5:40 人々はイエスをあざ笑った。

私たちの心の中にある石は、『あざ笑う心』です。それは、冷笑的な心、皮肉っぽい心です。私達の心に、こういう心があると、信じても、信じ切れないのです。私達の心の中に少なからずあるはずです。自分では『霊に燃えて主に仕えて』いるつもりでも、心の中に『そこまでやらなくても』という心があれば、それは私達の心にあざ笑う心がある証拠です。

 

そして、また言い訳がましい言葉や考えにも気を付けなければなりません。『3D』という単語があります。3つのDから始まる言葉です。『でも、だって、どうせ』これは私達の心が半分諦めている時に出てくる言葉です。言い訳しながら自己弁護する時に使う言葉です。しかし、このような心では、私達はいつまでも自分の逃げ場を用意して、主の働きに正面からぶつかることができません。

これは不信仰です。このようなかたくなな石の心を取り除きましょう。

 

3つ目に、主はどのようにしてラザロを復活させられたでしょうか?それは御言葉によってであります。単純な言葉によってラザロを復活させられました。

11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。

11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出てきた。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

主はラザロ、出て来なさいと大声で叫ばれました。以前同じようにして、イエス様は会堂長ヤイロの娘を生き返らせるのに、「タリタ、クム(少女よ、起きなさい)」と言われました。主は死んだ人間に出て来なさいと言われます。死んだ人間に言葉が聞こえるはずがありません。しかし、主は死んだ人間に出て来なさいと叫ばれます。主がそのように語られる時、死んだ人間を生きた人間だとみなしているということです。主の御言葉だけが人を生き返らせえる事ができます。

 

マルコ11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。

11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、「立ちあがって、海に飛び込め」と言い、少しも疑わず、自分の言う通りになると信じるならば、その通りになる。

11:24 だから行っておく。祈り求めるものは、すべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる。

主は信仰によって主の御業を起こそうとしておられます。私達のなすべきことは主を信頼して祈ることであります。

11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れて下さって感謝します。

11:42 わたしの願いをいつも聞いて下さることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

感謝と賛美をもって主に祈り続ける者になりましょう。イエス様はご自分の御業をなさる時に、父に祈られます。それは主の栄光が現れるためです。私達は主の御業をもっと積極的に祈り願い求めなければなりません。主は人間を通してご自分の業を行われます。それは、主の御業を通して人々がもっと主を信じ、従うようになるためです。その為に主は御業を行われます。私達一人一人が主の栄光を表す証し人になりましょう。私達が実際的な主が働かれたという証しを持つ為に、祈り続ける者になりましょう。

復活は死を乗り越えることです。そして死は罪からやって来ました。だからこそ、復活の奇跡は、イエス様が罪と死を克服できる存在であることを意味します。主がラザロの復活を通して、また主ご自身の完全な復活を通して罪と死を克服されるお方であることを示してくださることに感謝しましょう。このお方こそ、最も力あり、信頼できる主なる神様であります。私達は今日も遣わされる場所で主を信頼し、信じて主の栄光を仰ぎ見るものになりましょう。

このブログ記事について

このページは、ヨハン早稲田キリスト教会が2012年1月20日 01:44に書いたブログ記事です。

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