ヨハン早稲田キリスト教会で語られたメッセージの中から幾つかをご紹介。聖書の御言葉の恵みを分かち合いましょう。

本当の礼拝

場所:ヨハン早稲田キリスト教会・ヨハン教会

主日2時礼拝2010.1.3

聖書本文:詩篇841-13

主題:本当の礼拝

 

皆さん、こんにちは。20102回目の土曜礼拝であります。今週から、それぞれのキャンパスや職場では、勉強や仕事が始まっています。そして、一年52週間の毎週の礼拝が今年もあります。そんな中で、私達はどのような心で主の宮に進み出るべきか、今日の本文は詩篇84編であります。詩篇84編は神殿に対する憧れを表現した詩であります。

私達は、巡礼者という言葉を耳にした事があると思います。神殿で礼拝を捧げる為に、長い旅路を歩きながら、やっとの思いで神殿にたどりつき、喜びの中で主に礼拝を捧げる。この詩はまさに、巡礼者の詩という事ができるでしょう。

84:1 指揮者によって。ギティトに合わせて。コラの子の詩。賛歌。

私達が今日の本文を読みながら、感じることは、この詩篇の作者の、神殿に対するあくなき渇望、神殿において礼拝を捧げたい、主に出会いたいという切なる願いです。

84:2 万軍の主よ、あなたのいますところはどれほど愛されているでしょう。

84:3 主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。

84:4 あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り、つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。

 

私達は今日、このようにして教会に来ています。礼拝に来ています。どのような心で私達はこの教会にたどり着き、礼拝に望んでいるでしょうか。これから始まる52週間の礼拝をどのように捧げるでしょうか?

皆さんは、3節にある主の庭から何を連想しますか?わたしはエデンの園を連想します。

神と人とが交わり、安息するために作られたエデンの園です。何のために主は安息日を設けられたのでしょうか?創世記1章、2章の6日間の天地創造を見てみましょう。

主は、6日の天地創造に時間がかかって体力的に疲れたから、筋肉痛になったから7日目を休息にしたのでしょうか?そうではありません。父なる神様は6日間の創造の後、7日目を安息の日として、これは、神が、人間が地上の働きから離れて、神と人とが互いに愛し合う為に、親密な交わりの為に設けられたのが、安息日です。

東洋的な思想は6日間働いたから、7日目はお休みの日です。体力を回復させる日です。だから、人生の中心は平日です。平日にいかに会社で働き、学校で勉強し、お金を稼ぎ、知識を蓄えるかが人生の中心になります。仕事中心の人生です。お金か、名誉か、何かを手に入れる為の人生です。主はそのようにして1週間を定めたのではありません。

私達は選ばなければなりません。仕事中心の人生になるか、関係中心の人生になるかを選ばなければなりません。


主はご自分と親しく、愛し合うために人間を作られました。最初の創造6日間は、神と人間が交わるその環境を作ったに過ぎないのです。だから、7日目は神と人とが愛し合う日です。人と人とが互いに愛し合う日です。そのようにして主は安息日を定められました。

これから2010年の毎週の主日礼拝をどのような心で捧げますか?父なる神様は主日にご自分の子供たちとの愛の交わりを求めておられます。その主からの愛と招きに答えるのが礼拝です。主なる神様との愛の交わりを慕い求める、そのような心で私達は主の宮に進み出ているでしょうか?

この詩篇の作者を見てみましょう。実際に彼はまだ神殿にたどり着いていないのです。体は今だに神殿に向かう途中であります。もしかしたら、何らかの事情があり、行けないのかもしれません。

しかし、彼の心はすでにエルサレムにあり、そこで礼拝を捧げる期待と感激に満ちています。

84:5 いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら。

礼拝者がいかに幸いな者であるのか、繰り返し主張しています。彼は体は今だに道すがらであっても、心は既に神殿の中にあるのです。

ここで、私達は胸に手をおいて考えなければならないです。私たちはどうでしょうか?

私達は時として、この巡礼者と全く逆の態度でいる場合が多いのではないでしょうか。それは、体は主の宮である教会にあり、礼拝堂の椅子に座っていながらも、その心は教会とは別の所にあるということです。

私達の世の思い煩いや、心の欲望がそうさせるかもしれません。お尻は礼拝堂の椅子に座りながらも、その心はここにあらず、というものであるならば、私達は体だけ教会にある偽善的な礼拝者ということになるのです。

この、神殿での礼拝を切望している作者は、今だに自由に礼拝をできる状況ではないのです。そんな中で、私達は礼拝を捧げられる特権、御言葉を聞きたい時に聞き、祈りたい時に祈れる自由に心から私達は感謝しているでしょうか。あまりにも私達にとって礼拝は当たり前の日常の出来事に貶められていないでしょうか。彼はまさに、主なる神様との神殿での交わりを、若い男女が初めてデートする時のように期待と喜びにあふれる描写をしています。

私達は何の為に教会に来ますか?何か人生に有益な話を聞きにきますか?奉仕をしに教会に来ますか?詩編84編は、神との交わりを慕い求める願いで満ちています。

神様との交わりは個人的であり、人格的なのであります。

そこに喜びの表現があり、愛の告白があり、真心があります。クリスチャンの人生の中心は礼拝です。そこに喜びがなく、愛の告白や感謝がなく、主への真心がないならば、その周囲の人間関係にも愛も喜びもなくなるのは当然です。

これはあくまでも例え話ですが、4つの国の礼拝の様子を比較したたとえ話があります。勿論これはあくまでも例えですが、アフリカは踊る教会、シンガポールは賛美する教会、韓国は祈る教会、日本は勉強する教会、3つの国は何らかの主に対する喜びや感謝の表現なのに、日本は勉強という内向きな教会の姿がある。神様に対する表現がない。自分が知識や人生哲学を得るための場所になっている。私達は本当に主を愛するならば、それを何らかの形で表現するのを主は待っておられる。

主なる神様は人間だけを神様と個人的に、人格的に愛の交わりができる存在としてお造りになられました。主は私達と愛の交わりを求めておられます。その愛に応え、主に最大限の愛をもって進み出るのが、礼拝であります。

2010年を迎えましたが、神様に対しても、人間関係に対しても、すべての働きが愛の動機を土台としてできるようになることを心から願います。そして、この詩篇の作者のように、主との出会いを待ち焦がれる恋人のような心で礼拝に臨めるよう心から祈ります。

 

二つ目に、詩編の作者には主の前に進み出るため、苦難と嘆きを乗り越えていく姿があります。

84:6 いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。

84:7 嘆きの谷を通る時も、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。

84:8 彼らはいよいよ力を増して進み、ついに、シオンで神にまみえるでしょう。

クリスチャンの人生は高速道路でもエスカレーターでもありません。何もしないで祝福と平安がやってくるのではなく、むしろクリスチャンであるが故にこの地上で受ける悩みや葛藤があります。この本文は、暗に、この作者は自分ひとりでは、勇気がなく、恐れがあること、そして見るからには狭い道を歩いているように語っています。

神様を愛することは簡単ではありません。神様に近づくことは容易ではありません。仏教では、仏像がお寺に置かれてあります。人々は、その穏やかな平安に満ちた顔を見ながら、このような安らぎが人生にありたいと願います。慈悲深いと思います。

それに対してキリスト教はどうでしょうか?多くの宗教画に書かれているキリストの十字架の姿は、もだえ苦しみ、嘆き、血を流しながら人々に赦しを宣言しています。人々に十字架の上で愛を宣言しています。穏やかで平安に満ちて、慈悲を施そうとする仏の姿と、十字架の上でもだえ苦しみながら愛を示すキリストの姿は対照的です。

仏教はこの世の生きる苦しみ、病の苦しみ、老いる苦しみ、死の苦しみから逃れようと努力します。その為に煩悩を捨て、この世の全てが空であり、無であることを悟ろうとします。しかし、そのようなものから与えられた平安はまことの平安ではありません。

キリストは私達の為に血を流しながら、苦しみながら、葛藤しながら十字架にかかり、罪を赦されました。それは、本当に人を愛するには、どれだけ葛藤があるだろうか、嘆きがあるだろうか、苦しみがある事を意味するのです。私達の人生も決して楽ではありません。

嘆きの谷を通り、狭い道を通ります。特に、私たちにとって多くの問題は、人を愛する問題です。人を心から愛するのは決して楽ではありません。

だからと言って、私達は嘆きの谷や狭い道から逃げてはいけません。クリスチャンは主が十字架に掛かり、苦しみながら愛と赦しを宣言したイエス様に倣い、私達も今年一年、難しい課題、葛藤と悩みばかりの人間関係に対して逃げないで、正面からぶつからなければなりません。私達が今年一年、楽な道、広い道を通らないで、主によって勇気を出し、狭い道を通り、嘆きの谷を歩いたその分、私達が成長できると信じます。

 

3つ目に、いよいよ、詩編の作者は神様の宮に住む喜びを心から表現しています。

84:11 あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕でながらえるよりは、わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。

人生の価値は、時計で計れる客観的な長さによって決まるのではありません。人間にとっては、むしろ、創造主なる神様とどのような思いで、どのような深さで交わるかによるのです。神との交わりの深さは、客観的な人生の長さよりもはるかに大切なものです。

私達は主日や、木曜、土曜、また早天に来る人は毎日のように教会に来ています。主の宮に自分がいられる事の、喜び、感謝があるでしょうか。

それが当たり前になってしまうと、どれだけ尊い価値があるか、分からなくなるものです。

私達にとっては、神と共に親密に過ごす一日は、神との出会いなくして過ごす100年よりも尊いのです。神と出会うことなくして、100歳まで生きたとして、それが何になるでしょうか?私の本当の価値を知らず、目的を知らず、生きる意味を知らずに100年をただ生きるよりも、自分の本当の価値と、目的、意味を知って1年を充実して生きられるならば、その方がその人にとって幸いな人生なのです。

私達の人生の価値は、長さによって計れるのではない。神とどのようにあなたは交わりましたか?神とどのような親しい人生を送っていますか?

デイビットブレーナードの日記を読んだ事がありますか?彼は有名な神学者であり、アメリカのリバイバルを導いたジョナサン・エドワードの義理の息子です。彼は30歳の若さで、肺病で亡くなりました。しかし、彼はたった30年間の生涯であったにも関わらず、誰よりも親密な神との交わりがありました。彼は雪の上で血を吐きながら、アメリカのインディアンの救いの為に祈りました。彼の心血を注いだ取り成しの祈りの結果、多くのアメリカインディアンが救われたのです。その日記をイギリスの若いヘンリー・マーチンが読んで、その心が宣教へと捉えられ、やがて中近東アジア方面に宣教師として出かけていきました。

その神との親しい交わりの日記は勿論日本語にも翻訳され、世界中の人々に影響を与えています。

主の前で、私たちの人生は100年であろうと、30年であろうと、光が瞬くよりも短い一時の時間でしょう。私達はいかに長く生きるかではなく、どれだけ主の為に輝く人生を生きられるかを願っておられます。今年一年間を人生最後の一年と思って生きるならば、今日一日を人生最後の一日と思って生きられたならば、どれほど私達は毎日を大切に生きられるでしょう。主が与えてくださった今日、現在は英語でいうならば、presentです。それは神から与えられたものです。一日一日を主の前で大切に生きましょう。

4つ目に、この詩篇の作者は、主に逆らう者の天幕でながらえることよりも、神の家の門口に立つ方を選ぶと告白しています。

主に逆らう者の天幕とは、不義の家です。主に対して、人に対して罪を犯しながらも、天幕の中でくつろいでいる、そのような人々です。彼らはもしかして世の中で富と名誉を持っているかもしれません。社会的には有力な人物かもありません。しかし、主に逆らいながらも天幕にいるならば、必ず言える事は、彼らには真の心の平安がないということです。いつも何かに脅えています。裏切りにおびえています。安らぎのない人生です。

最近マスコミをにぎわせている話題はアメリカプロゴルフのスターであったタイガーウッズのスキャンダル事件です。愛人だけでも15人いると言われています。今までは紳士で、人格者として多くの人の尊敬を集めてきたタイガーウッズは、一気にその名声を地に落としました。

この事件を見ながら、色々と考えることがあります。それは、どんなに彼がゴルフの実力があっても、財産と名声があっても、罪を犯してしまうならば、全ては台無しになるということです。

彼は、ゴルフの実力も、財産もなくなるわけではない。しかし、罪という存在は、たった一つの罪で、今まで積み上げてきた信頼関係を一気に失ってしまうことです。

彼は不義を犯しながらも、天才プロゴルファーとして、人格者、スポーツマンとして振る舞って来ました。その中で、彼は裏で不倫の罪を犯し続けていました。わたしは、彼が不義の家の天幕に住みながら、本当の安らぎはなかったと考えます。いつかはばれるのではないかという恐れ、またそれに伴う社会的制裁、地に落ちる名声、それにも関わらず、分かっていながらも彼はこの罪を辞めることができなかった。彼は不安と恐れの中で、主に逆らう者の天幕にいたはずです。だからこそ、彼が交通事故を起こして全てのスキャンダルがばれた時、逆に心に平安が戻って来たでしょう。

彼は今、全てがばれて本当に恥ずかしいかもしれません。人々から非難され、恨まれるかもしれません。しかし、全てが主の前に明らかにされた今、心にはむしろ平安があるはずです。

罪を犯しながら、お金を稼げたとしても、自分を偽りながら、人々から認められたとしても、それが一体何の喜びになるでしょうか?

私達は多くの人生の中で、罪を犯し、偽善的になりながらも、人々から認められたり、富を得ようと努力します。その結果、私達にとって変えられない心の平安を失っています。

箴言28:1 神に逆らう者は追う者もないのに逃げる。神に従う人は若獅子のように自信がある。

とあります。神に逆らう者には心に平安がないのです。だからこそ、私達はどんなに難しくて不利な状況にありながらも、嘘や偽善でごまかす生き方ではなく、正直に、真実に生きたいと願います。

 

84:12 主は太陽、盾。神は恵み、栄光。完全な道を歩く人に主は与え、良いものを拒もうとはなさいません。84:13 万軍の主よ、あなたに依り頼む人は、いかに幸いなことでしょう。

詩篇の作者は、幸いな人は、主なる神様に依り頼む人であると語っています。つまりそれは、世の見える物、人間や物に頼らないという生き方です。12節には完全な道を歩く人と書いてあります。その完全な道は、狭い道です。険しく困難な道です。しかし、その道を歩む人は、主なる神様の助けを頂きながら歩んでいく祝福があることは明らかです。

新しい一年が始まりました。今年一年、皆さんはどのような道を歩みたいと願っていますか?

完全な道とは、主に従い通す道です。それは、苦しく、険しい道ですが、それでも主が良いもので満たして下さる道です。イスラエルの民が40年荒れ野を旅したように、苦しい道ですが、日々主から与えられるマナとうずらによって満たされて、守られた道です。

そのような道を歩みながら、今年一年が、主に喜ばれる祝福の歩みとなりますよう、心から願います。

このブログ記事について

このページは、ヨハン早稲田キリスト教会が2012年1月16日 00:09に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「主の栄光の為に用いられる毎日を」です。

次のブログ記事は「天国は力づくで - 洗礼者ヨハネとイエス」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。