ヨハン早稲田キリスト教会で語られたメッセージの中から幾つかをご紹介。聖書の御言葉の恵みを分かち合いましょう。

5つのパンと2匹の魚より 主の弟子とは

場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

土曜礼拝201011.6

聖書本文:マタイによる福音書1413節-21

 

皆さん、こんにちは。今日の本文は5つのパンと2匹の魚を通しての奇跡について御言葉を分かち合いたいと思います。

この本文はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書全てに書いてあることから、いかにこの箇所が福音書の記者にとって意味深いものであるかを知る事ができます。

今日土曜礼拝に集まっている兄弟姉妹は主の弟子になりたいと願っていると信じます。

今日の本文を見ながら、私達がイエス・キリストの弟子の道を歩むためにどうすれば良いのか、3つの点で分かち合っていきます。

 

1.弟子の資質とは何か

マタイ 14:13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。

14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。

イエスのうわさを聞いた群衆が方々の町から追いかけて来たのです。

しかし、驚くべき事は、主はそのようなご自分のただ一人の静寂と父なる神との交わりの時を妨げた群衆を見て、深く憐れんだということです。

ここで、私達はクリスチャンとして、あるべき心の態度を見ることができます。それは、『憐みの心』です。このような時、私達はどうしますか。

普通ならば、我々はうるさいからさっさとどこかに行って欲しいと群衆に言うでしょう。

しかし、イエスは群衆を見てうるさいとは思わず、かえって憐れんだのです。

憐みの心は隣人に対する関心であり、愛の始まりです。


どんなに聖書の知識を知っていたとしても、どんなにその人が祈りに熱心であったとしても、

人々に対する『憐みの心』がなければ本当の主の弟子になることはできないのです。


私自身も、イエス様を信じる前は、人々に対する関心はあまりなかった者でした。

自分の人生の幸せと成功を追い求めて生きる人でした。

しかし、イエス様を信じて何よりも大きな変化があったのは、人々を見て憐れに思う心が与えられた事でした。

電車に乗りながら、疲れて眠っているサラリーマンの姿を見て、自分はこういう風にはなりたくないというのが、最初の私の思いでした。

しかし、イエス様を信じてからは、

『この人達がイエス様を信じたら、どんなにか良いのだろうか』という思いが与えられ、人々に伝道したいという思いが与えられました。


どうしたら、憐れみの心が与えられるでしょうか?

それは、イエス様がされたように、人々が悩み、苦しんでいるその『現場に留まることです。

本文では、イエス様は最初舟に乗って、人々から離れていました。

しかし、後を追う人々を見て、決して彼らを見捨てようとはしないで、船を下りて人々の所に来られたのです。



 

私達はどうでしょうか?実は、私達はこのようにはあまりしたくないのです。

人々が悩んでいる現場で、私達が乗ってしまう『舟があるのです』

それは、『今は仕事で忙しい』という名前の舟、

『今は疲れている』という名前の舟、

『自分はあまり役に立たない』という名前の舟があるのです。


私自身が、よくよくそういう風になってしまいやすい事を良く知っています。本当に向き合う人がいるにも関わらず、

本当に話すべき人がいるにも関わらず、忙しさに負け、仕事に負けて、人々と会うその現場から、舟に乗って過ぎ去ってしまうのです。


人々は、常に真理を探し求めています。また、霊肉共の救いと癒しを求めています。

私達はすでにイエス様と出会って救われた者として、人々の苦しみの現場の中心にいなければならないのです。

しかし、私達はよくよくその現場から逃げてしまいます。

先ほど言った言い訳の舟に乗り、その人々の現場から離れてしまうのです。

そして、自分一人だけが乗っている舟の中で、自分自身を守ろうとします。


いつの時代でも主の働きは人間の罪と向き合うことです。

親子の断絶と憎しみ、また異性問題、金銭問題、劣等感などなど日々罪の問題と向き合うのが主の弟子の道です。

イエス様は苦しみの現場から決して逃げませんでした。その現場に留まりました。

私達もそうです。労苦する農夫は、常に田んぼと畑という泥臭い現場にとどまるのです。

農夫が事務所に籠るようになれば、それは農夫ではなく、管理者です。

私達は魂の管理人ではなく、魂と共に泥にまみれる僕です。


私達は主の弟子として道を歩みたいでしょうか?

イエス様がされたように、人々を憐れみ、舟を下りて、人々のいる苦しみと悩みの現場に留まりましょう。

 


二つ目に、弟子の使命があります。これは弟子のするべき働きです。

14:15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」

14:16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」

14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」

1418 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、

ここで、イエス様が弟子達に命令したことを見ることができます。

まず、弟子達はあまりに多い群衆の姿を見て、彼らを解散させようとしました。

そして自分たちで食べ物を買いにいくように勧めました。

しかし、主の考えは違いました。

「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」


これが主の御心です。少なくとも、この群衆達は、イエス様に何かを期待していたのです。

今も多くの人々が救いを求めています。教会にも多くの人々が来ます。

人々は、教会に期待しているし、また期待をしなければならないと信じます。

自分の人生に本当の満足がないからこそ、聖書の中に何かがあるのではないかと、人々は考えています。

その期待感に私達が答えなければなりません。

そして、人々を簡単に恵みの場から去らせてはなりません。


彼らを世の中に行かせてはならないのです。

弟子達は、人々が自分で食べ物を買う事ができると期待しました。

しかし、彼らが世の中にいて、手に入れることができるものは空しいものです。

世の中には真の救いはありません。

命のパンは、ただイエス・キリストを通して与えられなければならないのです。


主の弟子がするべき事は何でしょうか。

人々を主のもとに留まらせることです。

その為には、私達に確信がなければなりません。


先々週の教職者のリトリートに参加しながら、成長し、弟子が生まれている地方の教会の話を聞くことができました。

その中でも、広島教会の魂に対するチャンレンジの積極さに心が引かれました。


導かれた魂に聞くそうです。『今の人生に本当に満足していますか?』

どうでしょうか。実際の所、多くの人々は何らかの問題を抱えています。

その中で、聖書を勉強してみるようにチャレンジするそうです。

その中で、聖書を学ぶからには、主日に礼拝をしっかり守る事を条件に、書勉強を約束するそうです。

私達は今、自分達に与えられている聖書の御言葉にそのような自信と確信を持っているでしょうか?

この御言葉は人々の全ての問題を解決することができる。

人間の罪を解決できる。

そのような確信があれば、私達は大胆にチャレンジできます。


私達は自信をもって、人々を主イエスの臨在される場所である教会に導きましょう。

そこには、この世の中にはない命の食べ物があり、命の飲み物があります。


また、主はあなたがたが彼らに食べる物を与えなさいと言われました。

しかし、その場にはパン5つと魚2匹しかありませんでした。

自分の持っているものが少なかったとしても、それを主のもとに持って行きましょう。


私達が主の元に持って行く事ができる3つの捧げ物があります。

一つは何よりも心です。

心をこめて、主に祈りを捧げる中で、主は祈りを主への香ばしい香りとして受け取って下さいます。

二つ目は時間です。

私達に等しく与えられている時間を、主の為に用いることができます。

主の福音を述べ伝える伝道を通して、また主の為に捧げる奉仕として、主の為に時間を用いることができます。

私達はこの一週間、どれ位の時間を主の為に捧げたでしょうか?時間に余裕がある人が主の為に時間を捧げられる訳ではありません。

主を愛する人が、愛した分だけ主に時間を捧げることができると信じます。

三つ目に物質を捧げることができます。

主への捧げ物を献金として、あるいは何かの献品として捧げることができます。


私達は主の元に持ってくることを躊躇していないでしょうか?

主に捧げることをためらっっていないでしょうか?

自分の持っているものはなんですか?

ルカによる福音書には『5つのパンと2匹の魚しかない』とあります。5千人にはあまりにも足りないものです。

しかし、それでも主の元にもって行く事を願われます。

主はどのようなお方でしょうか?

主は全能なるお方です。石ころからでもアブラハムの子孫を創り出すことができるお方です。

無から有を創造できます。

しかし、主は人間を通して、人間の捧げ物を通して働かれたいと願っています。

だから、主は足りない5つのパンと2匹の魚を通して奇跡を行われました。

私達が持っているものは何でしょうか?

私の時間、私の財産、私の才能を主のもとに持って行きましょう。

主は私が委ねて捧げた時間、財産、物質、賜物を主の奇跡の為に用いて下さるからです。

主は捧げた5つのパンと2匹の魚を祝福されました。

何であれ、主のもとに持って来られた真心の捧げ物は祝福されたものです。


また、主は捧げた5つのパンと2匹の魚を祝福され、限りなく増やされました。主の弟子はそれをどうしたのでしょうか。

14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。

そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。

主の弟子ができることと、主だけにできる事があります。

私達は、まず、主の元に捧げ物を持って行くことです。


それから、主から祝福の祈りを受けたパンを受け取れば良いのです。

そしてそれを人々に分け与えれば良いのです。

主が直接5千人にパンを配ったのではなく、また空からパンが勝手に降って来たのでもなく、

主は弟子の手を通して恵みを分け与えようとされる事に感謝しましょう。


主が祝福されたパンをまず最初に受け取るのは、誰ですか?

弟子です。弟子にはその特権があります。

群衆よりも誰よりもまず、主は弟子に恵みを下さるのです。

そして、弟子を通して5千人を満腹させるという偉大な使命と特権があることに感謝しましょう。


来週からは、いよいよバイブルウィークが始まります。

この10日間、私達が与えられた時間と心を主のもとに捧げましょう。

そうすれば、まず、私達から恵まれるのです。

弟子からまず恵まれなければならないのです。

主の弟子が恵まれれば、主から命のパンを頂けば、

それを通して、私達は人々に与えられた恵みを分け与え、満たすことができると信じます。

 


3つ目に、弟子には特別の報いがあります。

先ほど言ったように、祝福されたパンを最初に受け取るのも弟子です。

そして、命のパンを分け与える特権があるのも弟子です。

しかし、それだけでは終わりません。


5千人の群衆を満腹させた後に、まだ残りがありました。

14:20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。14:21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。


すべての人はもう満腹しました。これ以上食べられないんです。

しかし、周りには、パンの屑が沢山あったんです。

そしてそれを残らず集めると12の籠一杯になりました。

この12の籠の意味は何ですか?

なぜ12籠ですか?

それは、このパンを分け与えたイエスの弟子が12人だからです。

主はこのような恵みの通り良き管となる12人の弟子に最後に素晴らしい報いを与えました。

それは12人それぞれに与えられる12の籠一杯のパンです。

喜びと感謝の報いです。

これは主の僕に与えられる特権的な報いなのです。

献身者の報いであり、労苦する筍長の報いです。


私達は、目に見えるパンのような恵みもあれば、パン屑のような報いもある事を知らなければなりません。

私達は、パン屑は最初、目に留まらないかもしれません。

弟子達は、最初ひたすら人々にパンを分け与える事に精いっぱいで、ゆっくり落ち着いてパンを食べる余裕も時間もないように思えます。

確かに、主の弟子は最初は労苦と犠牲が多いように思えます。

しかし、違います。主は特別に、労苦する弟子の為に特別な報いを用意しておられるのです。それはパン屑の恵みです。


ヨハネ6:12人々が満腹したとき、イエスは弟子達に「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。


とあります。主は少しも無駄にならないように、残りのパン屑を集めるように命じたのです。

私達が日々、気づかない恵みというのがあります。

例えば今日、1日健康でいられた事、今日、事故に遭わなかったこと。また今日、兄弟姉妹から励ましをもらったこと。

主の弟子は、このような世の人々や群衆が気づかない、目立たない恵みを探し求めるように命じておられるのです。

主の弟子はどんな人でしょうか?

パン屑のようなあまり気づかない、世の人々が目にも止まらないような小さな恵みにも気づいて、感謝して満足できる人です。


世の人々は、大きなパンを探し求めます。

出世、財産、大きな成功。

しかし、主の弟子は、小さなパン屑のような恵みを探して集めて、

それでもっと大きな満足と幸せを体験できる人であります。豊かな人生です。


結果として、5千人の群衆とこの12弟子のどちらがもっと豊かになりましたか。

群衆は自分が満腹してそれで終わりです。

しかし、弟子は籠一杯のパンを最後に頂いたのです。

これが弟子の報いです。私達はそれを目指しましょう。


いつも牧師先生や、宣教師先生を見ながら思う事があります。

牧師先生やサモニムを見ながら、本当に豊かな人生を送っています。

牧師先生が起業家でしょうか?大富豪でしょうか?そうではないです。

主にすべてを捧げている主の僕です。

多くの犠牲と労苦があるように思えます。

しかし、喜びにあふれ、感謝にあふれて多くの人々に恵みと祝福を分け与える、本当に尊い主の働きに用いられています。

どんなに幸せな人生でしょうか?窓会で言われるそうです。

 

私達は主の弟子として歩みながら、真の豊かな人生を歩みましょう

そして来週からのバイブルウィークを通して、そのような恵みがあふれることを祈ります。

このブログ記事について

このページは、ヨハン早稲田キリスト教会が2012年1月28日 18:00に書いたブログ記事です。

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