ヨハン早稲田キリスト教会で語られたメッセージの中から幾つかをご紹介。聖書の御言葉の恵みを分かち合いましょう。

天国は力づくで - 洗礼者ヨハネとイエス

場所:ヨハン早稲田キリスト教会(ヨハン教会)

土曜礼拝2010.2. 6

聖書本文:マタイによる福音書11:11-19

主題:洗礼者ヨハネとイエス

 

おはようございます。

今日の本文では、昨日に続けて、旧約時代と新約時代のかけ橋である洗礼者ヨハネと、イエスについての話が記されています。古い時代の最後の預言者としてヨハネは偉大な人物でしたが、キリストによって始まる新しい時代には比べられません。また、そのような偉大な時代が来たにも関わらず、イスラエルの人々はヨハネとイエスを拒みました。3つのポイントで、今日の本文を見ていきましょう。

 

11:11はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

とあります。洗礼者ヨハネは、イエス様が女から生まれた者のうち、最も偉大な者であると評価された人物です。なぜなら、彼はアブラハムが信じ、ダビデの子孫として生まれるメシア・イエスの来るべき道を準備し、そして彼に出会い、洗礼を授けた人物だからです。旧約聖書の全ての族長、預言者、王はメシアを待ち望んでいました。しかし、出会う事はできなかったのです。洗礼者ヨハネこそが、メシアを待ち望みながら道を備え、出会い、洗礼を授けたからです。彼は新しい時代のさきがけの存在になりました。そして、イエスが公の働きを始められた途端に、彼は自らが衰え、イエスが栄えることを願った謙遜な人物でした。全てが主の主権であることを認めた人物でした。

この世の中で最もみすぼらしく、荒布をまとい、人々の罪を宣告し、悔い改めのメッセージを語り、洗礼を授けたのは、金持ちでも政治家でもない、一人の30歳前後の青年だったのです。彼は神の使者として、荒れ野において、聖なる生活を送り、人々を悔い改めに導いた人物でした。

彼はいわば前座なのです。前座とは、本命の歌手や役者が来るまでに雰囲気を盛り上げて、場を持たせるそのような役割です。前座は本命の歌手が到着すれば、その役割は終わりです。静かに消えていくことが大切です。彼はそのような尊い役割をまっとうしたからです。


この世の多くの人々は自分の為に人生を生きています。自分の欲望、自分の満足の為に生きています。しかし、ヨハネはそうではありませんでした。彼はただ、救い主イエスの道を備えるというその為にだけ生きた人だったのです。そしてイエス様に洗礼を授けた後は、もはや彼はヘロデ王に捕らえられ、殉教しました。しかし、彼にとってはそれで良かったのです。彼は自分の使命をまっとうしたからです。

自分が利益と賞賛を得る為の働きよりも、自分の隣人が利益と賞賛を得るようにする働きがもっと難しいのです。自分が英雄になるために生きるよりも、隣人を英雄にするために生きることがもっと難しいのです。自分が影に隠れなければならないからです。自分が評価されるのを諦めなければならないからです。しかし、このような生き方にすばらしい報いがあると信じます。

先々週は神学特別講義が行われていましたが、イギリスの宗教改革を導いたのは、ジョン・ウェスレーでした。しかし、彼は最初からリバイバル師ではありませんでした。アメリカインディアン宣教における失敗があり、挫折と落胆の中で彼は帰国しました。しかし、その宣教旅行の最中に彼に大きな影響を与えたのがモラビア派と言われるクリスチャンの集まりでした。彼らの影響でウェスレーは回心を体験し、それから彼の偉大なリバイバル師としての人生が始まりました。また、このモラビア派は17世紀において、100年の間、リバイバルの為に途切れることなく連鎖祈祷を100年続けたといわれています。しかし、私たちはウェスレーは知っていても、モラビア派は知らないのです。ローマ帝国の福音化に大きく用いられたのは使徒パウロですが、彼の後に続く名もない奴隷や貧しいクリスチャンの名前は知らないのです。このように、一人の偉大な人物の背後に、名も知らない大勢の準備した人々がいます。

彼らこそ、天国での大いなる報いがあると信じます。私たちはどのように生きたいでしょうか。誰もが主役になりたいとは思います。しかし、誰もが主役になろうとすれば、それこそ世界はめちゃくちゃになります。むしろ主役を支え、仕える人々は謙遜な実力者です。

私達の教会もそうです。リーダーである牧師先生を支え、仕える人々がどれほど多くいるでしょうか。そのような神様の働きをするチームに加われる事に感謝しましょう。そして共に同じビジョンで働ける事に感謝しましょう。以前、KOSTAに来たサッカーのビスマルク元選手は、私はイエス・キリストのチームでプレイすることができるならば、一生涯、玉拾いでも構わないと言いました。この世のMVPや得点王は天の報いに比べて何の価値もないということです。

そのようにして、ヨハネはイエスの為に人生を生きた故に偉大な人物です。

しかし、彼でさえ、天の国で最も小さい者、つまりクリスチャンには劣る、そのようなイエス様は言いました。私達は、クリスチャンとして未だに足りなく時に罪を犯す存在ですが、このようにイエス様が言われるのは不思議です。しかし、理由があります。

洗礼者ヨハネは神の聖さ、神の義を人々に伝えた人物でした。しかし、全てのクリスチャンは知っているのにヨハネが知らなかったことがあります。それは、十字架を通して完全に表された神の愛です。これこそがキリスト教の核心であり、全てのクリスチャンは十字架を通して偉大なる神の愛を知ります。ヨハネは神の聖さと神の義は述べ伝えました。しかし、十字架の死を通した神の永遠の愛を伝えるまでいかなったからです。

主の十字架の恵み、これはクリスチャンだけが体験し、語ることができる最も偉大な特権です。そして、私達は十字架を通した神の愛故に心動かされ、イエス様を信じ受け入れるようになるのです。

ヨハネのメッセージを福音と呼ぶことはできません。これは本質的に、裁きの宣告です。しかし、イエスの福音は十字架を通した赦しのメッセージです。私達は一人の名もないクリスチャンでありますが、旧約聖書の最も偉大な預言者以上に神について知っている事を感謝しているでしょうか?多くの旧約の預言者は神の偉大さ、清さ、全能さについて知っていました。しかし、十字架で啓示された神の無限の愛まで知ることはできなかったのです。なぜ、ヨハネよりも天国の最も小さな民が偉大なのか、それは十字架の愛を知っているからです。皆さんは十字架の愛を知りましたか?神の御心は、ただキリストの十字架においてのみ完全に示されています。このように新約時代に与えられた恵みに我々は心から感謝しましょう。

つまり、ヨハネはイエスの愛を知らず、十字架の恵みを体験しないにも関わらず、人々をイエスの十字架へと導いたのです。こういう人々がいます。人々を導くリーダーであるにも関わらず、導く人がその目的地に到達できないで、付いていった人々がそれを体験しているという話があります。

モーセはカナンの地に人々を導きました。しかし、彼はその地に入れなかったのです。洗礼者ヨハネは人々をイエスの元に導きました。しかし、彼はイエスの十字架と復活までは体験できなかったのです。

誰かがこんな話をしていました。「毎日、夕方、家の窓から外を眺めると、点火係りが道路のランプを灯しながら歩いていくのが見えたが、実はその男は目の見えない盲人だった。」

彼は自分自身はその目的地に到達できなくても、人々に道を示す道しるべの役を果たしたのです。自分が行き着くことのできない目的地を他の人々の為に示すことは大事な役割です。

私たちは、この地上で道しるべにならなければなりません。皆さんは誰かの為に、何を準備しているでしょうか。自分のことだけを考えて生きているでしょうか。自分一人がそこにたどり着いて満足するのではなく、次の世代の為に、子供達の為に、後輩の為に道を備える者になりましょう。

 

 

二つ目に、洗礼者ヨハネから始まる新しい時代においては、また様々な働きが同時に起こっていることも示しています。

11:12彼が活動し始めた時から今に至るまで、天の国はちからずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。

この言葉は、一見すると難しい言葉です。天国が暴力的な力によって襲われているといいます。しかし、イエス様が来られた時に、主は何と言われたのでしょうか?『天の国は近づいた』と言われたのです。洗礼者ヨハネはイエス様の到来を予告しました。そしてイエス様は天の国が到来する事を宣言しました。ここで言う天の国は、単にこの世の終末に来る物理的な新天新地を意味するだけではありません。天の国、神の国とは、ギリシア語で「バシレイア」と言います。この意味は、「神の支配」「神の統治」という意味があります。つまり、神様が支配し、統べ治められる場所こそが天国なのです。イエス・キリストを受け入れ、聖霊様に満たされる人の特徴は『愛・喜び・平安』です。なぜならば、神様が私達の心を治めておられ、支配しておられるからです。つまり、天国は私達の心に訪れるものです。

しかし、私達はこの心の中にある天国、神の支配、つまり、「愛、喜び、平和、寛容、親切、誠実、柔和、節制」これらの豊かな恵みを私達の心は常に維持していることができるでしょうか?

おそらくそうではないでしょう。私たちの心に絶え間なくやってくる不安があり、恐れがあります。時には疑いや、怒り、憎しみや嫉妬に心が捕らえられることがあるでしょう。クリスチャンも一人の赦された罪深き者です。その心にはいまだに罪の根があることで、クリスチャンになってからも、私達は自分の心の中にある不安や恐れ、憎しみや怒りと戦わなければなりません。

つまり、私達の心は平安に満たされたいところですが、不安や恐れ、怒りによって激しくこの神の支配、神の治められる我々の心は侵略され、攻撃されているのです。だからこそ、私達は一度失われた天国を回復し、取り戻さなければなりません。まずは、私達の心にそのような平安が回復されるべきです。そして、クリスチャンは自分だけの心に留まらず、もっと大きな範囲にビジョンをもって信仰と祈りを拡大していくのです。私達はこのような悪しき霊の働きに騙されないようにしましょう。そして、教会の先生方の為に心をこめて祈り、そして決定を下します。私たちは受けた恵みを最後まで分かち合う関係になりたいです。以上です。

 

三つ目に、イエス様は現代の人々がどのようなものであるか、たとえを用いて語ります。

11:15耳のある者は聞きなさい。11:16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼び掛けている子供たちに似ている。

耳のある者は聞きなさい。とイエス様は言います。誰でも耳を持っています。しかし、耳で聞いて、その通りに聞き従う人と、聞き流してしまう人は大違いです。主が言われるのは、聞いて終わるのではなく、聞いて、その通りに従う心を持つ姿勢を言っています。

主が私達に願われるのは、従順です。人々の中でなぜある人は同じメッセージを聞いて人生が変わり、ある人は何も変化がないのか。それは、聞いて、それを生活に適応して実行するかにかかっています。私達は日々メッセージを聞きながら、どれだけ聞いて従っているでしょうか?一つでもいいんです。聞いて従う者になりましょう。聞く耳を持たないならば、主の祝福を得ることは難しいです。

こういう諺があるそうです。「馬を水際にひっぱって行くことはできても、水を飲ませることはできない。」結局のところ、本人が自ら変わりたいという心がなければ御言葉に耳を傾けることはできないのです。謙遜な者、従順な者だけが、御言葉を聞くことができるものであります。

 

しかし、今の時代はそのような御言葉を聞く耳のない時代であると言います。

広場に座っている子供たちの例えがあります。

11:17「「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった。」11:18ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、「あれは悪霊に取りつかれている」と言い、11:19 人の子が来て飲み食いすると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の頭だ。」と言う。しかし、知恵の正しさはその働きによって証明される。

 

子供達は、みなそれぞれが一緒になって何かをすることがなくなります。笛を吹くとは、喜び踊るサインです。しかし、人々は踊らない。葬式の歌は、悲しむサインです。しかし、人々は悲しまない。人々は全て個人主義化してしまい、ローマ書に書いていあるように、『喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。』という事がなくなるのです。

個人主義は、他人に対する無関心です。共に分かち合う事がなくなります。皆さんは『リア充』という言葉を聞いた事があるでしょうか?リアルな世界で充実している人々ということです。リア充な人々の特徴があります。友達が沢山いて、人々と関わる機会が沢山あること。何より重要なのは彼氏か彼女か恋人がいることです。この言葉を使うのは、インターネットやアニメにはまっている2次元の世界が中心の人々です。オタクと言っても良いでしょう。人々と人格的に交わる機会がないのです。人々は人間社会の出来事に反応しなくなっています。世界各地で自身やテロが起きても、日本で政権交代しても、時には家族で問題があっても無関心です。無関心、無感動、無目的の時代が現代です。このような日本の現状でどれほど、愛のある人格的な関係が必要かわかるでしょうか?イエス様の愛のみに真の愛と、真の関係の回復があります。人々は家族で、隣人で、会社や学校で関係が切れています。これは悪しき霊の戦略です。神の霊はそうではありません。人々が互いに励ましあい、助け合い、共に分かち合うのが聖霊様の望まれることです。このような悪い時代だからこそ、私たちはもっと御言葉とおりに輝く者になりましょう。

 

私達はどうでしょうか?教会はまさに、共に喜ぶ時は喜び、共に悲しむ時は悲しむ場所です。毎週の週報を見れば、様々なお知らせがあります。それは何のためでしょうか?共に喜びは分かち合い、悲しみも分かち合う為です。週報のお知らせを見ながら、全てが他人事になっていないでしょうか。また、私達の礼拝の姿勢を見てみましょう。礼拝は賛美し、祈り、またメッセージにはアーメンと答えて、共に賛美を捧げ、共に御言葉に応答するそのような時間です。しかし、私達は礼拝に参加しても、心から主の前に賛美し、またメッセージにアーメンと答えるそのような姿勢があるでしょうか?礼拝が盛り上がらない一つの原因には、私達が講壇から語られるメッセージや賛美に対して、心を合わせて喜ばない、また共に悔い改めないそのような冷笑的な姿勢があるはずです。

18節、19節にはヨハネの断食には悪霊に取りつかれているといい、イエスの食事は堕落だという人々の愚かさがあります。こういう何をするにも批判的で、反対の事を言う人を「あまのじゃく」と言います。聞く耳を持たない人です。

終末の世界に向けて、真理に耳を傾けようとしない人、聞く耳を持たない人が増えてくると聖書は言います。そして自分自身のやりたいことだけをやるようになります。そして、人々は聖書の御言葉に対して、独善的だとか、おしつけがましいと言って攻撃して、非難してくるようになります。しかし、私達はそのような批判を気にする必要はないのです。

19節にあるように、『知恵の正しさは、その働きによって証明される』とあります。

つまり、どんなに人々が御言葉に対して批判しても、何かにつけて文句を言っても、私達は、クリスチャンのその清い行い、誠実さ、愛のあふれる行動によって、聖書の御言葉が真理である事を証明すれば良いのであります。クリスチャンは御言葉をそのまま語り、そして聖書に書いてある通りにそれを実行するならば、それは最も影響力があり、説得力のある存在になります。私達は時代が変わろうとも、環境が変わろうとも、気にすることはありません。御言葉通りに従順して、聖書がいつの時代においても変わらない真理である事を、クリスチャンの行いによって世に証明する者になりましょう。

 

このブログ記事について

このページは、ヨハン早稲田キリスト教会が2012年1月17日 04:46に書いたブログ記事です。

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