ヨハン早稲田キリスト教会で語られたメッセージの中から幾つかをご紹介。聖書の御言葉の恵みを分かち合いましょう。

サマリアの女 - 一人の魂と会われるイエス様

場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

土曜礼拝2010.9.11

聖書本文:ヨハネによる福音書41節-26

主題:一人の魂と会われるイエス様

 

みなさん、こんにちは。

今日の本文は有名なサマリアの女の箇所であります。

皆さん、サマリア人とは誰でしょうか?知っていますか?

サアリア人はアッシリア民族により混血された北イスラエル民族です。


当時、イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国の二つに分裂していました。

分かり易く言うと、現在の北朝鮮と韓国のような関係です。

イスラエル民族は自分たちが神に選ばれた唯一の民族であると認識していました。

そして、その他の民族を軽蔑する心がありました。

そのような優れた北イスラエル民族がアッシリア帝国により滅ぼされ、民族同化政策により混血されたのがサマリア人です。


南ユダ王国の子孫であるユダヤ人は、異邦人と混血した北イスラエル民族の子孫であるサマリア人を軽蔑し、

お互いに交際することもない、断絶された関係でした。

このようなユダヤ人にとって、最も忌み嫌う、軽蔑するべきサマリアの地に足を踏み入れたのがイエス様でありました。


今日は、このサマリアの地で行われたイエス様の働きについて見て行きたいと思います。


ヨハネによる福音書 4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。 

4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。

4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。

4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。

正午ごろのことである。

4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。  


イエス様はサマリアを通り、ヤコブの井戸で疲れて座っておられました。

そこに水を汲みに来たのがサマリアの女です。

この女性は名前さえも記されていません。無名の人物です。

イエス様は、実にこの無名の女性に会うためにサマリアの地に来ました。

ユダヤ人が寄り付かない、忌み嫌っているサマリアの地にイエス様は訪れました。


私達はイエス様の働きを見ながら、模範的な主の弟子の働きを見ることができます。

つまり、人が行きたくない場所に行かなければなりません。

人々が避けて通る場所に向かわなければなりません。

私達の日々の生活を見れば、避けたい人間関係があります。

避けて通りたい問題があります。

しかし、私達はその問題に直面し、正面から向き合う必要があります。それが主の弟子の姿勢です。



下半期が始まりましたが、私達が避けたい問題に対して、正面から向き合える私たちになるよう祈ります。

それは自分の個人的な罪の問題かもしれないし、人間関係かもしれません。

しかし、そのような避けたい問題に正面から向き合うことで、私達は成長していけると信じます。


イエス様は、人々が避けて通るサマリアを通り、一人の女性に出会いました。


この女性はどういう人物でしょうか?正午に井戸に水を汲みに来たとあります。

この当時、乾燥地帯であるこのパレスチナの地は非常に暑くて、正午頃には人々は外出しないのが一般的でした。

人々は家の外に出ないで中で仕事をするか、昼寝をする時間でした。

そのような暑くて、人々が外出しないような時間帯にわざわざ水を汲みに来たのがこの女性でした。

この女性は問題を抱えている女性でした。それは後でイエス様が会話の中で明らかにされます。


4:16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、

4:17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。

4:18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」


この女性は5人の男性と結婚と離婚を繰り返している女性でした。

しかも、今付き合っている男性は夫とも呼べない存在でした。

現代でもこのような女性は尊敬すべき人とは言えません。

当時のユダヤ社会においては、人々から軽蔑され、汚れた女として誰からも相手にされない存在です。

だから、この女は正午に水を汲みに来ました。人目を避けて通らなければならない女性でした。


恐らく男性と何度も結婚をしながら、人生の本当の満足を求めていたでしょう。

しかし、結局自分の心を本当に満たしてくれる存在には会う事はできず、

結果として5人の男と結婚と離婚を繰り返して、悲惨な状態にいたのがこの女性です。


この人に会う為にイエス様はサマリアにこられました。そして、『水を飲ませて下さい』と話されたのです。

そして、イエス様は続けて言われました。10節から14節をお読みしましょう。


ヨハネによる福音書 4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。

4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。

4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」


イエス様はサマリアの女と水の話をしています。

しかし、イエス様は水の話がしたいのではないのです。

エビアンとボルビックどっちが良いかという話ではないです。

イエス様はこの女性と水の話がしたいのではなく、人生の話がしたいのです。

イエス様が言いたいことはこうでした。『本当の人生の満足はどこから来るのか?


イエス様はこの女性が人生に渇いていることを知っていました。変わらない愛と平安を捜し求めていることを知っていました。

だから、この女性に対して水の話をしながらも、イエス様は決して渇かない水について話を始めました。


私たちもそうです。私達は多くの人々に会いながら色々な話をします。

趣味の話、食事の話、最近の時事問題について。

色々な話をしながらも、私達が最終的に行き着くべき終着点は、私達の人生についてです。

人間の永遠の未来、永遠の命についてです。

この話をしないならば、どんなに今現在の私たちの職場や勉強や国際情勢について語ったとしても、意味がないのです。


私達は遣わされる職場やキャンパスで、会う一人一人に、私たちにとって最も大事な人生の問題について、

つまり罪の赦しと永遠の命を与えてくださるイエス様についてかたっているでしょうか?


私達はイエス様を知っています。

だから、渇かない水について私達は語る資格も特権もあります。

どうか、下半期に、牧師や宣教師がやるのではなく、ここにいる私達一人一人が職場で、キャンパスで、家庭で人生の根本的な問題について、その解決の方法について、福音について証する私たちになりましょう。


イエス様が与えてくださる渇かない水は何ですか?それは罪の赦しと永遠の命であり、福音であり、愛、喜び、平安という聖霊様の実です。

主の祝福であり、恵みです。


イエス様は言いました。今までこの女性は渇いてしまうこの世の水を求めている。

しかし、結果的には渇いてしまう。しかし、主が与えてくださる水は永遠に渇かないと言われました。


11節をお読みしましょう。

4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。


女は言いました。『くむ物をお持ちでないし、井戸は深い』これがこの世の水を求めている人の考え方です。

この世の水は汲むものが必要です。つまり、何かがないと水を汲めないのです。

それは例えば才能です。お金です。人間関係や社会経験です。

そういった自分なりの何か道具がないと、水を汲めないというのが、この世の水です。この世の幸福です。しかも、井戸は深いのです。


そのような汲むための道具があっても、井戸が深いから、簡単に手に入れることはできない。

もしかしたら失敗するかもしれない。

それがこの世の水であり、この世の幸福です。


多くの人々はこの世の幸福を求めています。しかし、その為には何か人よりぬきんでた実力が必要です。

多くの人々はその為に競争しています。そんなに努力しても、最終的に手に入れられるかは分からないのがこの世の水です。

しかし、イエスが与える水はそうではないと言っています。


4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」


主が与える水はその人の内から出てくるものです。だから、汲む物はいらないのです。

実力も、才能もそれはいらないのです。その人の内から出てくるものだから、誰でも手に入れられるのが主の与える水です。

私達は既にその命の水を手にしていることに感謝しましょう。


クリスチャンでありながら、この世の水を今でも慕い求めているとするならば、

それは挫折と失敗の人生になります。

本当の私たちの満足は、私たちの内側から、主との交わりの中から出ることを信じましょう。



3番目に、この女はこの水を手に入れたいと思いました。しかし、それには条件があります。


4:17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。

4:18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」


この女は夫はいないことを告白しました。

ありのままを言いました。私たちがイエス様と出会う為には何が必要でしょうか?

『ありのままを言う』ことが必要なのです。


1ヨハネ 1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。

1:10 罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。


主と出会うために、私達はありのままを主に告白しなければなりません。

彼女が自分のありのままを言わなければ、イエス様に出会うことはできなかったでしょう。

自分の罪をありのままに素直に認めるものに、

そのような自分の罪の惨めさ、今自分が置かれている悲惨な霊的な状況をありのままに認めて、それでも主の恵みを求める人々に、主は出会ってくださいます。


主は黙示録でラオディキア教会の人々に警告しました。


黙示録 3:17 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。


自分の悲惨さに気づいていない人々です。

イエスを信じているといいながら、クリスチャンであると言いながら自分の悲惨さ、霊的な貧しさを認めることができない人々です。

この世の豊かさで満足していて、主の恵みを慕い求めようとしない人です。

間違った自己満足の人です。


私達は、今、もう一度自らのありのままの悲惨さを、霊的な貧しさを主の前に告白しましょう。


そのような人に主は人格的に出会ってくださると信じます。

この女性はイエス様に出会いました。25,26節をお読みしましょう。


ヨハネによる福音書 4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」

4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」


イエス様がご自分を表して下さり、この女はイエス様に会いました。

イエス様が誰であるかを知ることが、私たちの人生を変えるきっかけです。


ヨハネによる福音書  4:28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。

4:29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」


彼女は水がめを置いて町に行きました。彼女は本来水を汲むために井戸に行きました。

しかし、彼女はもはや水を汲むのをやめて町に行きました。


それは何ですか?今までの行き方との決別です。今まで人目を避けて生きる生き方、自分が惨めな存在であるという自己嫌悪の中で生きる生き方、これらと決別することです。


そして、この女はもはや人目を避けることなく、人々の前で堂々と言いました。

『私はイエス様に出会いました』このように宣言しました。


私達は、実にこのサマリアの女ほどにも変われていないのではないでしょうか?

このような一人の魂の変化が、大きな霊的なムーブメントのきっかけになると信じます。

私達は、この下半期、イエス様が長い時間をかけて、サマリアの女に会いに行ったように、

私達は一人の魂を変える為に、サマリアの女のように変える為に働きたいと願います。

一人の人が心から変えられるならば、それは一人では終わらないのです。


必ず波及的な効果があります。副作用があります。

一人の人の変化はその人の家族や友人にもおよび、最終的にはその人の所属する社会にも及ぶのです。

このヨハネによる福音書4章は、最初のサマリア宣教を成し遂げた一人の名前もない女性の話です。


教会においても言えます。一人の人が本当に変わるならば、地域が変わり、地区が変わり、教会が変わります。

そのような人々の変化が神の教会に勢いを与え、力を与え、求心力と成長を与えると信じます。

だから、私達は下半期、一人の魂が本当に変わるように力を尽くしましょう。

百人の変わらない人々を呼び集めるよりも、一人の主の前で本当に変わった魂が、この日本にとって必要だと信じます。


私達は、このような一人の魂が劇的に変化する恵みを見たいと願います。

まず、私達自身がこのように変わりたいと願います。

私達は変わりたいでしょうか?

自らの霊的な貧しさ、悲惨さを携えて主の前に行きましょう。

そして、変えられた私たちが、私たちの周りにいる魂を変える為に用いられましょう。


心から変えられた人が、人を変えることができると信じます。

まず、私達自身が、サマリアの女のように変えられるように、

そして、変えられた私たちが多くの人々をイエス様の元へ導く器となれるよう祈っていきましょう。

このブログ記事について

このページは、ヨハン早稲田キリスト教会が2012年1月27日 09:23に書いたブログ記事です。

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