ヨハン早稲田キリスト教会で語られたメッセージの中から幾つかをご紹介。聖書の御言葉の恵みを分かち合いましょう。

ヨシヤ王の改革 -御言葉によるリバイバル

場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

土曜礼拝20105.15

聖書本文:歴代誌下3414節-33

主題:御言葉によるリバイバル

 

おはようございます。今日の本文は歴代誌下34章です。

1週間のバイブルウィーク恵まれさまでした。隣の人と、一週間どんな恵みがあったのか、話あってみましょう。


バイブルウィークは御言葉を集中的に学ぶ集会です。

私達クリスチャンの集まりは御言葉中心でなければなりません。

今日、取り上げた本文は、南ユダ王国の歴代の王の中でもダビデに次いで、主に喜ばれたヨシヤ王の時代を取り上げました。

南ユダ王国はソロモン王の後に分裂し、息子レハブアム王からバビロンに捕囚されるまで、20人の王が建てられてきましたが、そのうちの9人は程度の差はあれ、ダビデ王の道に倣い、主に認められた王、残りの11人はダビデの道とは異なり、主の道に逆らう王でありました。


私達は、このようにして歴代の王がダビデ王を基準として評価されているのが分かります。

ダビデ王はどのような王だったでしょうか。彼が、どのような王であったのかは、詩篇1篇を見れば明らかです。


詩篇 1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。


詩篇1篇もそうです。また詩篇18篇、詩篇119編を見てみるならば、ダビデは御言葉を心から愛し、敬い、それに従おうとひたすら努力した王様であったことを見ることができます。

私達はダビデ王というと、ゴリアテを倒した王というイメージがありますが、彼はそのような華々しい活躍の裏に、御言葉を慕い求め、それに忠実であろうとする切なる姿勢を見ることができます。

ダビデ王は御言葉に忠実であろうとした王でした。そして、歴代の王がどのようにダビデと比較されるかは、ダビデのように御言葉に従おうとしたかが評価されるのです。

今日のヨシヤ王はどうだったでしょうか。3節を見てみましょう。


歴代誌 34:3 その治世の第八年、彼がまだ若かったときに、父祖ダビデの神を求めることを始め、第十二年に聖なる高台、アシェラ像、彫像、鋳物の像を取り除き、ユダとエルサレムを清め始めた。

ヨシヤ王は八歳で王になりました。そして、その治世8年、つまり16歳の時に、彼がまだ若かった時に父祖ダビデの神を求めることを始めた、とあります。

そして、その治世12年、彼が20歳の時に王として南ユダの偶像を取り除き、国を清め始めたということです。

 

彼は御言葉にあるように、若くして16才で神を慕い求め始めました。そしてその4年後に20歳でありながら、王として国を清め始めたということです。



2週間バイブルウィークが始まりました。このような20歳で国家全体を改革し、清めるという聖市化運動を始める、若くて、御言葉を慕い求める人物が起こされて欲しいと切に願います。

私達の教会は若者が多いんです。今回バイブルウィークには、最近洗礼を受けた魂も参加しているし、現在洗礼クラス参加者、そしてキャンパスでつながった1年生の魂が参加しています。


教会にはある意味、色々な魂が来ます。しかし、最も希望あふれる人々は、バイブルウィークのような御言葉を求める集会に来る人です。

私たちはこのような魂を心から育てていかなければなりません。

彼らが御言葉で恵まれること、そしてそれに留まらないで、ヨシヤのように、国を変えるような偉大な人物に育ってほしいと願います。


ヨシヤ王は自ら望んで国を変えようとしたのではありません。ただ彼が主なる神を求め、主の御言葉を自らの国で実践しようとして、彼は結果的に国を変えることになったのです。

私達もそうです。私達が自らの遣わされる職場、キャンパスで主の御言葉を心を尽くして実践しようと努力するならば、私達は職場、キャンパスを変えることができます。

そして最終的には国を変えることができると信じます。

 

彼の王としての業績の中で特筆すべき内容が本文14節からの出来事です。


歴代誌下 34:14 主の神殿に寄せられた献金が取り出されている間に、祭司ヒルキヤがモーセによる主の律法の書を見つけ、34:15 書記官シャファンに、「わたしは主の神殿で律法の書を見つけました」と言った。ヒルキヤがその書物をシャファンに渡したので、


祭司ヒルキヤがモーセの律法の書を神殿において発見するという出来事がありました。そして王の前に報告されました。

神殿で律法の書を発見するというのは、まるで教会を歩いていたら、聖書がありました。というようなものです。


つまり、この時代、どれほど神の御言葉が読まれなくなっていたのかということを意味します。

神殿がありながら、そこには御言葉がなかったのです。形式的な宗教儀式、いけにえだけが残っていたという時代です。どれほど霊的に荒れ果てた時代かが分かります。


私たちはこのような時代をあざ笑う事ができるでしょうか。今の時代、今の日本はそのような時代でないと言えるでしょうか。

今、日本には8200の教会があります。しかし、主日の礼拝を捧げ、それで終わる教会がほとんどです。

クリスチャンであるといいながら、主日礼拝に行って聖書を開いて、終わったらそれで終わり、平日は御言葉を読むわけでもなく、教会の祈り会にもこないような状況がほとんどです。


この日本で平日に教会を見て下さい。

ほとんど鍵がかけられて、入ることができません。

教会は御言葉が語られ、祈りがささげられる場所であるはずです。

しかし、ヨシヤの時代のように、神殿はあるが、律法の書が読まれる事もない、形式的な儀式のみが残った時代。

日本もキリスト教会はあっても、ノンクリスチャンの結婚式に使われるような時代。

これが今の時代です。


私達はどうでしょう。私達の体も神の住まわれる神殿です。

この神殿に日々の御言葉はあるでしょうか。日々、御言葉は実践されているでしょうか。

毎日教会には足を運びながら、私達の心の中心に御言葉がないとするならば、心の片隅で埃をかぶった状態ならば、私達自身もこの時代と変わりがないということです。

 

そんな中でこの誇りをかぶった律法の書が、再び神殿で発見される出来事がありました。真理の御言葉が再発見されたのです。


私達は、キリスト教の歴史を見てみるならば、リバイバルは常に御言葉の真理の再発見から起こることが分かります。


中世ローマカトリックにおける霊的な暗黒時代に、同じように教会は形式化し、御言葉はラテン語のみで書かれ、一般の民衆は聖書を読むことができませんでした。

お金で免罪符を買えば魂は救われるとまで言われました。そのような中でマルティン・ルターによって発見されたのは、『信仰義認』の教理です。


ルターは、1517年にローマ教会の堕落に抗議して95ヶ条の論題を打ちつけ、救いは『ただ信仰により、恵みにより』神の前に義とされることを主張しました。


かつて語られた真理が再び、ルターによって明らかにされました。それで宗教改革が始まり、霊的なリバイバルがおこりました。


17世紀にジョン・ウェスレーは『メソジスト(几帳面すぎる人)』というあだ名がつくほどに、聖書の戒めを徹底的に守ろうとする人でした。しかし、彼はアメリカ・インディアンの宣教に失敗し、落胆していました。

このような心境のもと、1738524日、あまり心も進まぬままにロンドンのアルダースゲート街で開かれたモラヴィア派の集会に出席し、司会者が朗読するルターの「ローマ書講解説教」序文を聞いているうちに、心が熱くなる回心の体験をしたのです。


915分前ごろ、キリストを信ずる信仰によって神が人心に働いて起こしたまう変化について、聞いていた時、私は自分の心が熱くなるのを覚えた。

そしてキリストを、ただひとりの救い主であるキリストを信じた。

またキリストは私の罪をさえも取り去り給うて、私を罪と死の律法から救って下さったとの確証が、私に与えられた。」


この体験がジョン・ウェスレーを魂の底からゆり動かし、それまでの失意を吹き飛ばしました。4日後の主日礼拝において、『信仰こそ勝利の力』という主題で説教を語り始めた彼は、それからは全世界を教区とするメソジスト・リバイバルに用いられるようになりました。


いつの時代においても、聖書の真理が人々の間で明らかにされる時に、リバイバルは起こって来ました。


今回のバイブル・ウィークにおいても、私達は聖書の基本的で、最も重要な真理を今週学んで来ました。十字架のあがない、信仰によって義とされること、聖霊様の働きによる聖化の過程など、私たちが学んだのは、もっとも重要で、多くの歴史を経て検証され、確かめられてきた偉大な聖書の真理です。

そして、本当に人を変える力ある御言葉の真理です。このような事を学べる事に皆さんは感謝していますか?



人々の心は真理から遠く離れています。

科学の発展が真理を明らかにするのではありません。

国家の新体制が明らかにするのでもありません。

真理は新しく発見されるものではなく、既に2000年前に聖書の完成を通して明らかにされています。皆さんは、聖書の中にこそ、真の真理があると信じますか?


聖書を持っている私達が真理を知っています。もう一度、私達は聖書の中にこそ、真理があることに自信をもちましょう。

来週からもバイブルウィークがあります。私達は御言葉の真理が人々の心に、この世の中に大きな変化をもたらすことに確信をもって参加し、また多くの人々を誘っていきましょう。

 


2番目に、真理の再発見はどのような出来事をもたらしたのでしょうか?

19節から21節をお読みしましょう。

2歴代誌 34:19 王はその律法の言葉を聞くと、衣を裂いた。34:20 王はヒルキヤ、シャファンの子アヒカム、ミカの子アブドン、書記官シャファン、王の家臣アサヤにこう命じた。34:21 「この見つかった書の言葉について、わたしのため、イスラエルとユダに残っている者のために、主の御旨を尋ねに行け。我々の先祖が、主の言葉を守らず、この書物に記されているとおりにすべての事を行わなかったために、我々の上に注がれた主の怒りは激しいからだ。」


また、26節から27節をお読みしましょう。


歴代誌下 34:26 主の心を尋ねるためにあなたたちを遣わしたユダの王にこう言いなさい。あなたが聞いた言葉について、イスラエルの神、主はこう言われる。34:27 あなたはこの所とその住民についての主の言葉を聞いて心を痛め、神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしはあなたの願いを聞き入れた、と主は言われる。


このようにして、真理の御言葉を発見したヨシヤ王は、自ら衣を裂き、悔い改めて主の前にひざまずいて、私の前で泣いたと書いてあります。

ここには、ヨシヤ王が神の御言葉の前にひれふす謙遜さがあります。彼は律法を神の言葉として認め、あまりにも律法にしたがっていない自分自身、そして御言葉に逆らっているユダの王国を見ながら、衣を裂きました。

ここに、私達は御言葉を通してもたらされた悔い改めの姿を見ることができます。


彼は御言葉を読んで、きずいた事はまず『神の怒り』についてでした。

つまり、ヨシヤは律法を通して、神の義の厳しさをことごとく悟り、衣を裂きました。


私達は御言葉を通して、様々なことを悟ります。

もちろん4つの法則にあるように、神はわたしたちを愛しておられます。しかし、私達は神の愛の前にまず、神の義があることを知らなければなりません。神の義は、罪に対して一点の妥協もない正しさです。

この神の義の前に、私達は神の怒りにさらされていることを知らなければなりません。


私達が御言葉を読み、聖書の真理を悟るならば、この日本が、多くの救われていない魂が神の怒りのすぐ目の前にあることを知らなければなりません。

そして、失われた魂に対して無関心である私達自身も、神の前に喜ばれないことをしらなければなりません。

私達はこの一週間、またバイブルウィークの期間が終わっても、御言葉を通してこのような悔い改め、義に対する熱心の為に動いているでしょうか。

 

私達はもう一箇所、悔い改めのモデルとして、第二コリント7章の箇所を読むことができます。

第二コリント79-12節をお読みしましょう。

第二コリント 7:9 今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。なたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。

7:10 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。

7:11 神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。

7:12 ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。


この本文にあるように、コリント教会の人々は、パウロから罪の指摘をされた時、ただ落胆し、失望して終わったのではありません。

自らを打ちたたき、正しく生きる為の熱心に変わりました。御言葉の働きは何でしょうか?

ただ自らの罪を悟り、自分自身が後悔して終わるのではなく、神の義に従いたい、御言葉を守りたいという熱心さに変わることです。


私達は、御言葉に対して熱心でしょうか?情熱があるでしょうか。

日本は、熱心である事が歓迎されないような風潮があります。熱心であることを嘲笑うような雰囲気があります。

仏教のように、静かに、黙って、黙々とすることが何か美徳であるかのようです。

情熱的に、感情的にすることが何か子供っぽいような風潮さえあります。


ユダヤ人は、御言葉の真理の前に、自分の服を引き裂くことさえもしました。

それほどの熱心がありました。私達はどのような思いで御言葉を読み、行動に移していますか?


私達は何か怒りっぽくありなさいということではないのです。

しかし、私達は義に対する熱心、御言葉に対する熱心を主が喜ばれることを知る必要があります。

世界中探しても、政治や社会がひどくても、暴動が一切起こらないのは、日本だけだと言われています。

これは何も暴動を起こせということではないのです。

しかし、人々が何か不義や間違いがあっても、人々は声も上げないし、変化を起そうとしない国民性が日本にあることは確かです。

それが世の中の政治や社会でとどまるならばまだしも、真理の御言葉に対する熱心、それに対する情熱までも、起こらないような沈んだ雰囲気になってはならないのです。

私達は、真理に対しては妥協してはなりません。

義に対する熱心という、聖霊様の炎がこの2週間のバイブルウィークを通してもう一度燃え上がるよう祈ります。

 


3つ目に、ヨシヤ王を通して始まったリバイバルはどのように広がったのかを見ていきましょう。

歴代誌下 34:29 そこで王は人を遣わして、ユダとエルサレムのすべての長老を集めた。

34:30 王は、ユダのすべての人々、エルサレムの住民、祭司とレビ人、老いた者から若い者まで、すべての民と共に主の神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた。

34:31 それから、王は自分の場所に立って主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されている契約の言葉を実行することを誓った。


ヨシヤ王に御言葉を通して与えられた義への熱心は、一人では終わりませんでした。

彼らは長老を集め、老いた者から若者までを集めて、御言葉を読み聞かせたのでした。

このようにして、彼の御言葉の悟りと恵みは、自分一人では終わりませんでした。


私達は、霊的なリバイバルは、決して一人では終わりません。またヨシヤ王の霊的なリーダーシップは自分ひとりが受けた恵みと悔い改めが自分では終わらず、律法に対する熱心を、多くの人々にも守らせ、従わせ、従順させた事にあります。これがヨシヤ王の素晴らしいことです。

ウェールズのメソジスト・リバイバルの直接の起こりは1735年のハウエル・ハリスという人物の信仰的な回心でありました。

彼は聖餐のとき、キリストの血による恵みを受けたという確信が与えられました。そして、これを人々に証しし、自分の家で集会を持ち始めたのがきっかけです。


どうか、受けた御言葉の恵みを、自分一人でとどまらせないで、多くの人々に伝え、守らせるようになりましょう。自分たちの筍、地域、地区において、自分が恵まれて、それに留まらないで、兄弟姉妹が分かち合い、皆、守るようになるならば、それが地区毎のリバイバルの土台になると信じます。


今週の火曜日から金曜日まで、先ほどYBSであったようにエジンバラの宣教記念大会がありました。

牧師先生も発表されましたが、このような働きが日本であったのには、意味があると思います。日本でもこれからますます宣教会議が開かれるだけでなく、宣教の中心基地として用いられてほしい、そういう時代が来ることを願います。

明日の礼拝では、エジンバラ宣教大会で講演された、海外で用いられる宣教師先生がメッセージしてくださいます。期待しましょう。私たちのヨハン教会が、その為に用いられるよう祈りましょう。

 

このブログ記事について

このページは、ヨハン早稲田キリスト教会が2012年1月25日 01:47に書いたブログ記事です。

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