ヨハン早稲田キリスト教会で語られたメッセージの中から幾つかをご紹介。聖書の御言葉の恵みを分かち合いましょう。

2012年1月アーカイブ

場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

土曜礼拝201012.4

聖書本文:イザヤ書4027節-31

主題:鷲のように翼を張って上る


イザヤ書本文より 

40:27ヤコブよ、なぜ言うのか

イスラエルよ、なぜ言するのか

わたしの道は主にされている、と

わたしの裁きは神に忘れられた、と。

40:28あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神

地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく

その英知は究めがたい。

40:29疲れた者に力を

勢いを失っている者に大きな力をえられる。


ヤコブはどのような人生を歩んだ人でしょうか?

ヤアコブはヘブライ語で「かかとをつかむ者=人を出しく者」を意味するとされます。

それは約聖書のヤコブ(イスラエル)が、兄のかかとをつかんだまま生まれ、兄を出しいて長子の祝福を得たことに由来します

彼は人間的には非常に狡猾な人だったのです。

兄であるエサウから長子の権利を巧みに奪い、そして父イサクからの祝福もリベカとの計略により奪い取ることに成功しました。

しかし、彼はエサウに命を狙われ、叔父であるラバンのもとに住んでいる時に様々な苦労をすることになります。

ヤコブよりも更に狡猾なラバンによってただ働きをすることになるからです。

そして、常に彼の心の中にはエサウの確執という解決できない問題があったのです。


また、彼は12人の子どもに恵まれる中で、もっとも愛する11番目の息子ヨセフを兄達の計略により失いました。

彼はその名前のとおりに非常に狡猾で頭のいい人間でしたが、

ずる賢い生き方をする分、彼はずる賢い叔父、また自分の息子たちにも騙されて多くの人生の痛みを背負って生きてきた人です。


しかし、彼はある一つの出来事を通して彼の本質は変化するようになります。

ヤボク川での出来事です。

創世記3223節-33節を一緒にお読みしましょう。

創世記2:23 その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。

32:24 皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、

32:25 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。

32:26 ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。

32:27 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」

32:28 「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、

32:29 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」

32:30 「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。

32:31 ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。

32:32 ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。

32:33 こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。


彼は、神と真剣に向き合い、格闘することを通して本質的な変化を体験するようになります。

26節には彼の腿の間接が外れたとあります。

腿の間接は体の足の部分のもっとも奥深い部分です。

もっとも奥深い部分が神によって打たれてはずされたのです。

これは何を意味するのでしょうか?

彼の信仰者としての本質的な部分が変えられたということです。

そして、この後に彼は今まで一番の心の悩みであった兄エサウとの問題を乗り越えることになりました。


 

場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

土曜礼拝201011.6

聖書本文:マタイによる福音書1413節-21

 

皆さん、こんにちは。今日の本文は5つのパンと2匹の魚を通しての奇跡について御言葉を分かち合いたいと思います。

この本文はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書全てに書いてあることから、いかにこの箇所が福音書の記者にとって意味深いものであるかを知る事ができます。

今日土曜礼拝に集まっている兄弟姉妹は主の弟子になりたいと願っていると信じます。

今日の本文を見ながら、私達がイエス・キリストの弟子の道を歩むためにどうすれば良いのか、3つの点で分かち合っていきます。

 

1.弟子の資質とは何か

マタイ 14:13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。

14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。

イエスのうわさを聞いた群衆が方々の町から追いかけて来たのです。

しかし、驚くべき事は、主はそのようなご自分のただ一人の静寂と父なる神との交わりの時を妨げた群衆を見て、深く憐れんだということです。

ここで、私達はクリスチャンとして、あるべき心の態度を見ることができます。それは、『憐みの心』です。このような時、私達はどうしますか。

普通ならば、我々はうるさいからさっさとどこかに行って欲しいと群衆に言うでしょう。

しかし、イエスは群衆を見てうるさいとは思わず、かえって憐れんだのです。

憐みの心は隣人に対する関心であり、愛の始まりです。


どんなに聖書の知識を知っていたとしても、どんなにその人が祈りに熱心であったとしても、

人々に対する『憐みの心』がなければ本当の主の弟子になることはできないのです。


私自身も、イエス様を信じる前は、人々に対する関心はあまりなかった者でした。

自分の人生の幸せと成功を追い求めて生きる人でした。

しかし、イエス様を信じて何よりも大きな変化があったのは、人々を見て憐れに思う心が与えられた事でした。

電車に乗りながら、疲れて眠っているサラリーマンの姿を見て、自分はこういう風にはなりたくないというのが、最初の私の思いでした。

しかし、イエス様を信じてからは、

『この人達がイエス様を信じたら、どんなにか良いのだろうか』という思いが与えられ、人々に伝道したいという思いが与えられました。


どうしたら、憐れみの心が与えられるでしょうか?

それは、イエス様がされたように、人々が悩み、苦しんでいるその『現場に留まることです。

本文では、イエス様は最初舟に乗って、人々から離れていました。

しかし、後を追う人々を見て、決して彼らを見捨てようとはしないで、船を下りて人々の所に来られたのです。



 

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土曜礼拝2010.9.11

聖書本文:ヨハネによる福音書41節-26

主題:一人の魂と会われるイエス様

 

みなさん、こんにちは。

今日の本文は有名なサマリアの女の箇所であります。

皆さん、サマリア人とは誰でしょうか?知っていますか?

サアリア人はアッシリア民族により混血された北イスラエル民族です。


当時、イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国の二つに分裂していました。

分かり易く言うと、現在の北朝鮮と韓国のような関係です。

イスラエル民族は自分たちが神に選ばれた唯一の民族であると認識していました。

そして、その他の民族を軽蔑する心がありました。

そのような優れた北イスラエル民族がアッシリア帝国により滅ぼされ、民族同化政策により混血されたのがサマリア人です。


南ユダ王国の子孫であるユダヤ人は、異邦人と混血した北イスラエル民族の子孫であるサマリア人を軽蔑し、

お互いに交際することもない、断絶された関係でした。

このようなユダヤ人にとって、最も忌み嫌う、軽蔑するべきサマリアの地に足を踏み入れたのがイエス様でありました。


今日は、このサマリアの地で行われたイエス様の働きについて見て行きたいと思います。


ヨハネによる福音書 4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。 

4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。

4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。

4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。

正午ごろのことである。

4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。  


イエス様はサマリアを通り、ヤコブの井戸で疲れて座っておられました。

そこに水を汲みに来たのがサマリアの女です。

この女性は名前さえも記されていません。無名の人物です。

イエス様は、実にこの無名の女性に会うためにサマリアの地に来ました。

ユダヤ人が寄り付かない、忌み嫌っているサマリアの地にイエス様は訪れました。


私達はイエス様の働きを見ながら、模範的な主の弟子の働きを見ることができます。

つまり、人が行きたくない場所に行かなければなりません。

人々が避けて通る場所に向かわなければなりません。

私達の日々の生活を見れば、避けたい人間関係があります。

避けて通りたい問題があります。

しかし、私達はその問題に直面し、正面から向き合う必要があります。それが主の弟子の姿勢です。



場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

土曜礼拝20105.15

聖書本文:歴代誌下3414節-33

主題:御言葉によるリバイバル

 

おはようございます。今日の本文は歴代誌下34章です。

1週間のバイブルウィーク恵まれさまでした。隣の人と、一週間どんな恵みがあったのか、話あってみましょう。


バイブルウィークは御言葉を集中的に学ぶ集会です。

私達クリスチャンの集まりは御言葉中心でなければなりません。

今日、取り上げた本文は、南ユダ王国の歴代の王の中でもダビデに次いで、主に喜ばれたヨシヤ王の時代を取り上げました。

南ユダ王国はソロモン王の後に分裂し、息子レハブアム王からバビロンに捕囚されるまで、20人の王が建てられてきましたが、そのうちの9人は程度の差はあれ、ダビデ王の道に倣い、主に認められた王、残りの11人はダビデの道とは異なり、主の道に逆らう王でありました。


私達は、このようにして歴代の王がダビデ王を基準として評価されているのが分かります。

ダビデ王はどのような王だったでしょうか。彼が、どのような王であったのかは、詩篇1篇を見れば明らかです。


詩篇 1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。


詩篇1篇もそうです。また詩篇18篇、詩篇119編を見てみるならば、ダビデは御言葉を心から愛し、敬い、それに従おうとひたすら努力した王様であったことを見ることができます。

私達はダビデ王というと、ゴリアテを倒した王というイメージがありますが、彼はそのような華々しい活躍の裏に、御言葉を慕い求め、それに忠実であろうとする切なる姿勢を見ることができます。

ダビデ王は御言葉に忠実であろうとした王でした。そして、歴代の王がどのようにダビデと比較されるかは、ダビデのように御言葉に従おうとしたかが評価されるのです。

今日のヨシヤ王はどうだったでしょうか。3節を見てみましょう。


歴代誌 34:3 その治世の第八年、彼がまだ若かったときに、父祖ダビデの神を求めることを始め、第十二年に聖なる高台、アシェラ像、彫像、鋳物の像を取り除き、ユダとエルサレムを清め始めた。

ヨシヤ王は八歳で王になりました。そして、その治世8年、つまり16歳の時に、彼がまだ若かった時に父祖ダビデの神を求めることを始めた、とあります。

そして、その治世12年、彼が20歳の時に王として南ユダの偶像を取り除き、国を清め始めたということです。

 

彼は御言葉にあるように、若くして16才で神を慕い求め始めました。そしてその4年後に20歳でありながら、王として国を清め始めたということです。



場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

日時:主日2時礼拝2010.3.20

聖書本文:創世記13章8節-18

主題:最善の選択とは?

 

皆さんこんにちは。

今日は創世記13章の箇所であります。

先週まで、ビジョントリップを通して多くの恵みがあったことに感謝します。

韓国のリバイバルしている教会を見ながら、いかにしてこのような祝福が韓国に訪れたのか色々考えさせられました。

何よりも言えるのは、これは人間の力の業でも、知恵の業でもなく、

神様が働かれたその足跡がリバイバルであるということです。

そして、主なる神様はご自身の大きな御業を成し遂げられる為に限られた人物を握りしめて御業を行われるということも見ました。

プサンのスヨンロ教会のチョンピルド先生もそうであり、ミョンソン教会の金サンワン先生もそうです。

彼らは主によって握りしめられ、霊的に祝福された韓国の中でも主が中心的に用いておられる器であるという事を実感しました。

しかし、このような主の働きは歴史の中で常に繰り返されています。

主はいつも、その働きの根本的な法則や原則を変えることはありません。

祝福される人には祝福される人なりの理由があり、祝福されないのには、それなりの理由があります。

聖書において、主なる神様が選ばれ、

祝福の源とされたアブラハムと神様との間にどのような交わりがあったのか、

今日の本文を通して見ていきたいと思います。

そこには霊的な法則が主によって語られています。


創世記13:14 主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目をあげて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。

主はアブラハムに言われます。「さあ、目をあげなさい」これは何を意味するのでしょう。

アブラハムはつい先ほどまで、今まで人生を共に歩んできた甥のロトとの別れを経験しました。

アブラハムの人生を考えてみるならば、彼は主の偉大なる計画の為に、

今まであった様々なものごとに対して別れをのべなければなりませんでした。

カルデアのウルを離れる時に、生まれ故郷に別れを告げなければなりませんでした。

自分の親、親戚に別れを告げなければなりませんでした。

そして、カナンの地まで付いてきたロトともまた、別れを経験しなければなりませんでした。

主はご自分の偉大な計画の為に、何を自分にとどめておくべきか、何から自分が離れるべきなのか。

それを示されます。



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土曜礼拝2009.7.11

聖書本文:ヨハネによる福音書1117-273844

主題:信じるならば、主の栄光を見る


おはようございます。今日の本文はラザロの復活の場面であります。イエス様はヨハネの福音書において7つの奇跡をおこなわれています。その中の7つめの奇跡がラザロの復活であります。ラザロは病気で死んだとされています。その病気は何であるか、分かりません。しかし、妹のマルタ、マリアの兄であるということを見ても、彼の死はまだ早すぎる死であったと言わざるを得ません。とてもその人生を最後まで全うしたとは言えない、早い死でした。このようにして、人間にとって死は必ずやってくるものであり、またいつやってくるかは分かりません。そしてどうしても人間が避けることができないものが死であります。ベタニアにおいては、ラザロの早すぎる死を悼む人々が弔問にきていました。そこに、イエス様が来られました。

私達は今日のラザロのような魂を見る事ができます。頑なで、動こうとしない魂です。そんな魂に対してイエス様はどのように働かれたのか、見て行きましょう。

ラザロは一家の大黒柱でした。彼の死により、マルタとマリアは家の生計をどう立てていけば良いのか、これから二人でどのように生活していけば良いのか、悲嘆にくれたに違いありません。そのような嘆きと悲しみの中で、マルタはイエス様に対して言いました。

1121 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」1122 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。

マルタはイエス様がどのようなことを今までされてきたのか、十分に知っていました。イエス様はらい病患者をいやすことができる。イエス様は盲人の目を開くことができる。5千人にパンを食べさせることができる、そのようなお方であると聞き、信じていました。

そして、もしラザロが死ぬ前にイエス様が来て下されば、必ず癒して下さったと確信していました。しかし、死んでしまったらもう終わりだと思っていました。だから、死んだラザロを前にして、イエス様に対して出た言葉は、「もし、ここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」でした。

つまり、もう手遅れでした、残念です、というものです。私達はマルタの信仰を見ることができます。彼女は確かにイエス様を信じていました。病気を癒し、奇跡をおこなう事ができるという信仰です。しかし、その信仰は十分ではありませんでした。死んだラザロを今よみがえらせられるという信仰にまでは至らなかったからです。そこから落胆とつぶやきの言葉がイエス様に対して出ました。

私達はどうでしょうか?私達もイエス様を信じています。しかし、そのお方の力、能力を制限したままでイエス様を信じているならば、私達は信仰生活の中でマルタのような発言がたくさん出てくると思います。それは、私達の信仰の足りなさゆえに出てくるつぶやきの声です。私達は様々な状況に直面し、落胆し、つぶやきます。しかし、信仰があれば希望の言葉を発することができます。マルタの信仰はただのつぶやきで終わりませんでした。

1122 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。

マルタは、イエス様に対して希望を抱いていました。私達はどうでしょうか?常に主に対して希望を抱いていますか?困難な状況においても、主は何でもできると信じる者になりましょう。マルタは最初感じました。もう手遅れだと、そうでしょうか?信仰において、イエス様の前で『もう手遅れ』はないということです。今私達が置かれている状況は手遅れな状況に思えるでしょうか?いいえ、主にあって回復不可能なことはありません。もう手遅れだということもありません。どんな状況からでも私達はやり直し、立ち上がる事ができます。


場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

土曜聖研2008.15

聖書本文:創世記4:17?265:21?24

主題:エノクのように

 

皆さん、こんにちは。新年明けましておめでとうございます。今年1年も喜びと共に新年を始められることに感謝します。さまざまな目標がある1年だと思いますが、今年の主題である「ただ聖霊によって」勝利することができる1年になることを願います。

さて、今日の本文は創世記の本文であります。私達が今生きている日本という状況、そして霊的な環境は相も変わらず良くないのであります。その中で私達がどのように生きているくべきであるのか、よくよく聖書を読みながら適応するべきところです。今日取り上げた文章は創世記417節から、そして5章の中でのセトの系図の中の人物エノクという人です。聖書の登場人物の中でも非常に割かれているのが短く、どのような人物であるのか詳しく知ることはできません。しかし、その人が生きていた時代がどのような時代でどのように彼が生きていたのか、少なからず聖書の中から知ることはできます。そしてその中で私達がどのように生きるべきであるのか教えてくれるところもあるのです。

 まず、一つ目に彼が生きていた時代は完全な堕落の時代でもありました。創世記を見ると4章と5章に二つの系図が書かれてあるのを見ることができます。4章の17節から26節までは、カインの系図が書かれています。カインとは誰でしょうか?弟アベルを殺した人類最初の殺人者であります。そしてその子孫たちがいました。殺されてしまった弟アベルは神に認められた信仰の人でした。ヘブライ書11章を見ると、彼は信仰によって優れたいけにえを捧げたと言われているのです。このような素晴らしい信仰者でした。そして主なる神様は信仰を喜ばれるのですが、この素晴らしい信仰者は殺されてしまったのです。そしてそれに代わる子供がセトでした。彼も信仰の人物でした。そしてそのセトの系図が創世記5章であります。そのセトの6代目の子孫がエノクなのです。彼も信仰者の系図に入る人物でした。そして彼は特に『神と共に歩んだ』と書かれています。

場所:ヨハン早稲田キリスト教会(ヨハン教会)

土曜礼拝2010.2. 6

聖書本文:マタイによる福音書11:11-19

主題:洗礼者ヨハネとイエス

 

おはようございます。

今日の本文では、昨日に続けて、旧約時代と新約時代のかけ橋である洗礼者ヨハネと、イエスについての話が記されています。古い時代の最後の預言者としてヨハネは偉大な人物でしたが、キリストによって始まる新しい時代には比べられません。また、そのような偉大な時代が来たにも関わらず、イスラエルの人々はヨハネとイエスを拒みました。3つのポイントで、今日の本文を見ていきましょう。

 

11:11はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

とあります。洗礼者ヨハネは、イエス様が女から生まれた者のうち、最も偉大な者であると評価された人物です。なぜなら、彼はアブラハムが信じ、ダビデの子孫として生まれるメシア・イエスの来るべき道を準備し、そして彼に出会い、洗礼を授けた人物だからです。旧約聖書の全ての族長、預言者、王はメシアを待ち望んでいました。しかし、出会う事はできなかったのです。洗礼者ヨハネこそが、メシアを待ち望みながら道を備え、出会い、洗礼を授けたからです。彼は新しい時代のさきがけの存在になりました。そして、イエスが公の働きを始められた途端に、彼は自らが衰え、イエスが栄えることを願った謙遜な人物でした。全てが主の主権であることを認めた人物でした。

この世の中で最もみすぼらしく、荒布をまとい、人々の罪を宣告し、悔い改めのメッセージを語り、洗礼を授けたのは、金持ちでも政治家でもない、一人の30歳前後の青年だったのです。彼は神の使者として、荒れ野において、聖なる生活を送り、人々を悔い改めに導いた人物でした。

彼はいわば前座なのです。前座とは、本命の歌手や役者が来るまでに雰囲気を盛り上げて、場を持たせるそのような役割です。前座は本命の歌手が到着すれば、その役割は終わりです。静かに消えていくことが大切です。彼はそのような尊い役割をまっとうしたからです。


場所:ヨハン早稲田キリスト教会・ヨハン教会

主日2時礼拝2010.1.3

聖書本文:詩篇841-13

主題:本当の礼拝

 

皆さん、こんにちは。20102回目の土曜礼拝であります。今週から、それぞれのキャンパスや職場では、勉強や仕事が始まっています。そして、一年52週間の毎週の礼拝が今年もあります。そんな中で、私達はどのような心で主の宮に進み出るべきか、今日の本文は詩篇84編であります。詩篇84編は神殿に対する憧れを表現した詩であります。

私達は、巡礼者という言葉を耳にした事があると思います。神殿で礼拝を捧げる為に、長い旅路を歩きながら、やっとの思いで神殿にたどりつき、喜びの中で主に礼拝を捧げる。この詩はまさに、巡礼者の詩という事ができるでしょう。

84:1 指揮者によって。ギティトに合わせて。コラの子の詩。賛歌。

私達が今日の本文を読みながら、感じることは、この詩篇の作者の、神殿に対するあくなき渇望、神殿において礼拝を捧げたい、主に出会いたいという切なる願いです。

84:2 万軍の主よ、あなたのいますところはどれほど愛されているでしょう。

84:3 主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。

84:4 あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り、つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。

 

私達は今日、このようにして教会に来ています。礼拝に来ています。どのような心で私達はこの教会にたどり着き、礼拝に望んでいるでしょうか。これから始まる52週間の礼拝をどのように捧げるでしょうか?

皆さんは、3節にある主の庭から何を連想しますか?わたしはエデンの園を連想します。

神と人とが交わり、安息するために作られたエデンの園です。何のために主は安息日を設けられたのでしょうか?創世記1章、2章の6日間の天地創造を見てみましょう。

主は、6日の天地創造に時間がかかって体力的に疲れたから、筋肉痛になったから7日目を休息にしたのでしょうか?そうではありません。父なる神様は6日間の創造の後、7日目を安息の日として、これは、神が、人間が地上の働きから離れて、神と人とが互いに愛し合う為に、親密な交わりの為に設けられたのが、安息日です。

東洋的な思想は6日間働いたから、7日目はお休みの日です。体力を回復させる日です。だから、人生の中心は平日です。平日にいかに会社で働き、学校で勉強し、お金を稼ぎ、知識を蓄えるかが人生の中心になります。仕事中心の人生です。お金か、名誉か、何かを手に入れる為の人生です。主はそのようにして1週間を定めたのではありません。

私達は選ばなければなりません。仕事中心の人生になるか、関係中心の人生になるかを選ばなければなりません。


ヨハン早稲田キリスト教会

土曜礼拝2011.12.10

聖書本文:使徒言行録423節?31


 今日は使徒言行録4章の箇所から分かち合いたいと思います。

使徒4:23さて二人は、放されると仲間のところへ行き、

祭司長たちや長老たちの言ったことをらず話した。

4:24これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かってをあげて言った。

「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。


いつの時代も福音を伝えようとする所には反対がありました。

これは今の日本でも変わらないことです。

人間は本性的に神の言葉を拒むからです。

それが人間の罪性です。


特に日本はどうでしょうか?

日本は特に個人主義が強い国です。

また宗教に対する抵抗感が最も強い国の一つでしょう。

日本はもちろん信仰の自由はあります。

宗教を信じることは守られています。

そんな中でも、人々は何か唯一の神、特定の何かを信じること。

しかも熱心に信じることがおかしなことであるかのように思われています。

日本は、形而上学的なことに対する考えが薄いと良く言われるんです。


科学技術は素晴らしいです。経済力もそれでもまだ力はあります。

しかし、経済も技術も、これは目に見えるものです。

日本は、目に見えないものを追求する事、

普遍的なものを追及することが何か可笑しなことだと思われるような雰囲気があります。


特に若者は、そういった事を真剣に考えなければならないんです。

自分は何の為に生きているのか?

最も幸福な人生はどのようなものなのか?

生きることはどういう事で死んだらどうなるのか?

私たちの民族はどのような道を歩めばよいのか?

大学生の時にこそそれを考えることが必要です。

ソロモンも【青春の時にこそ、あなたの創造主に心を留めよ】と言われました。

しかし、日本の大学はそういう雰囲気があまりにもない。

大学生を伝道すると、意識のある人々はどういう事を考えるか?

真剣な大学生も、企業や、ビジネスや、資格のことは考えます。

日本の経済や政治については考えるんです。

しかし、あくまでも目に見えない領域には触れないんですね。


意識のない学生は、大体サークルか、バイトか、または恋人かゲームかそんな感じです。

日本は、霊的なことに対する意識を持たないように、

人生の目的や永遠の命や、目に見えない領域について考えることは

何かタブーであるかのように思わせる雰囲気がありますね。

これは正直に言うと日本の偶像崇拝の2千年の歴史の影響以外にはありえないです。

すべてが目に見えるものである。


日本は金か、神かを選ばなければならないです。

金は目に見える、数える事もできる。自分の力で掴み取ることもできる。

しかし、神は目に見えない。数える事もできない。自分の力で掴み取ることもできないお方です。

信仰によってしか、見ることができないお方です。


そんな中で私たちは既に信仰によって救われ、霊的な目が開かれている事に感謝しましょう。

私達の人生には希望があります。

目に見えないものではなく、目に見えない主なる神を見て歩むからであります。



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