ヨハン早稲田キリスト教会で語られたメッセージの中から幾つかをご紹介。聖書の御言葉の恵みを分かち合いましょう。

パウロは朝から晩まで説明を続けた

場所:ヨハン早稲田キリスト教会

土曜礼拝2011.5.14

聖書本文:使徒言行録2823節?31

主題:パウロは朝から晩まで説明を続けた。

 

こんにちは。一週間のバイブルウィークの恵みに感謝します。

聞いた御言葉が実際の生活の変化の実りとして与えられるよう祈ります。


今日の本文は使徒言行録28章です。

使徒言行録の最後の章であります。

今、私達が生きているこの世界は使徒言行録29章だとも言われています。

それは、このルカが書いた使徒言行録がある意味中途半端なような感じで終わっているところがあるからだとも言えます。

私達はこの使徒パウロの姿を見ながら、真の主の弟子としての姿勢を学んでいく事ができます。

今日の本文の2324節を一緒にお読みしましょう。

 

28:23そこで、ユダヤ人達は日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。

パウロは朝から晩まで説明を続けた。

神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、

イエスについて説得しようとしたのである。

28:24ある者はパウロの言う事を受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。

 

使徒パウロはこの当時、どこにいたのでしょうか?

ローマです。

待ち望んでいた世界の中心であるローマです。

全ての道はローマに通じると言われていた場所です。

パウロはローマが変われば世界が変わると信じていました。

その当時、クリスチャンと言われている人々はわずか、

当時、ローマの皇帝は暴君と言われていたネロ皇帝であり、

クリスチャンは迫害されていました。

パウロはこの時に自宅軟禁状態であったと言われています。


そんな中で、パウロは自分の念願であったローマにおいて、

自宅にいながらでしたが、御言葉を述べ伝える権利が与えられました。

彼は多くの人々が宿舎に来る事を歓迎しながら、神の言葉を述べ伝え続けたのです。

このパウロの宿舎こそ、まさにローマにおける神の教会であったという事ができます。



真の教会とはどんな教会でしょうか?

それは今日の本文にあるように、朝から晩まで御言葉を述べ伝える所です。

今、バイブルウィークが行われています。

まさに朝から晩まで御言葉が伝え続けられているのです。

本当に恵みの場所にいることを感謝しなければなりません。

私達がバイブルウィークで使っているテキストがあります。

このテキストは、韓国の弟子訓練で有名な教会である

『愛の教会』の担任牧師であったオカノン先生が作ったものです。

このテキストも、実際には毎週主日、一年間かけて終わらせる目的で作られたテキストなのです。

しかし、私達の教会は1年間でやるものを2週間で集中的にやっています。

御言葉を集中的に聞くことで、体系的に聞くことができるからです。

私達はもう一度、御言葉を聞くことができる恵みに感謝しなければなりません。

牧師先生やサモニムを始めとして、先生方が毎日御言葉を語られるその恵みに感謝し、

私達は御言葉を語る先生方の為に祈る者になりましょう。


パウロが教えているその主題は何でしょうか?

本文によれば、モーセの律法や預言者の書、つまり旧約聖書を引用しながらも、

教えるその内容は『イエスについて』なのです。

私達も今もそうです。福音の核心で、教えるべき内容はイエスについて、

イエスの十字架と復活についてです。


?コリント15:3?6

15:3最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。

すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、

15:4葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、

15:5ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

15:6次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。

そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。

 

ここで、私達は考えなければなりません。

主の弟子の基本は、御言葉を教えることなのです。

だから、どのように御言葉を教えるべきなのか、これが大切です。

私達にとって課題は、御言葉を教えるにしても、

知識的に、ただの説明で終わってしまうところなんです。


今日、パウロはユダヤ人達に対して、モーセの律法、預言書を引用しながら御言葉を語りました。

ユダヤ人にとっては律法、預言書は当然なじみのあるものです。

また、彼らの価値観、世界観、神観を形作るものなのです。

パウロはそのユダヤ人の世界観、価値観、神観の基盤である聖書を用いながらも、

イエス・キリストはユダヤ人が待ち望む軍事的な、政治的な王でもない、

罪からの救い主であることを語ったところに意味があるんです。

つまり、ユダヤ人の持っているメシア観が違うという事を語ったのです。

ここに私達がやらなければならない御言葉を教える姿勢があります。


当時のユダヤ人のメシア観は、

自分達をローマから救う国家的な指導者、政治的、軍事的な王だったのです。

また、彼らの世界観は何でしょうか?

ユダヤ人だけが救われるべき選ばれた民族、周りの異邦人は犬のような滅びる民族。

彼らはそのような考えにコンクリートされていたんです。

だから、罪からの救い主であり、

異邦人まで含めた全ての民族の救い主というイエス・キリストを受け入れる事ができなかったのです。

御言葉と聖霊様の力により、これを打ち破らなければならなかったのです。

聖書勉強は、霊的な戦争なのです。

これは、世界観の戦いであり、価値観、人生観の戦いなのです。

パウロはユダヤ人達の持っている頑なな間違ったメシア観、世界観と戦うために、

朝から晩まで御言葉を語り続けました。

聖書の内容を教えることが聖書勉強ではないのです。

聖書の御言葉を用いて、その人の今までの価値観、人生観、神観と戦ってこれを打ち破り、

変えることが聖書勉強なのです。

そのようにして、人々の思考の構造が変わる時に、その人が根から変わり、

リバイバルされると信じます。


だから、私達の教える魂がなぜ変わらないのか、

また私達自身がなぜ変わらないのか。

それは、私達自身の考え方、心の根の姿勢が変わっていないからです。

表面的に聖書を読んで、適応するからです。

ただの勉強には何の葛藤もないんでしょう。

皆さん、受験勉強する時に、何か葛藤ありましたか?

勉強そのものがストレスにはなるのでしょう。

しかし、世界史を勉強して、英語を勉強して、それで自分の人生観、世界観と戦いましたか?

そんなことはしてないです。ただ知識を頭に詰め込むだけで、

生き方や世界観には何の変化もないです。

ただ大学に合格するために知識を詰め込むだけだからです。

しかし、聖書勉強は違うのです。

祈りの中で聖霊様と共に、

御言葉で相手の生き方、考え方にタッチしてそれを打ち破る時に霊的な勝利があると信じます。


パウロが何を言いたかったかは、第一コリント15章に書いてあります。

十字架を通して現わされた罪の赦しと復活についてです。

福音の核心はイエスキリストの十字架なんです。そこに罪の赦しがあります。

 

ここで、私達は罪の赦しについて考えなければなりません。

私達は基本的に「罪の赦し」という概念がないんです。

だから聖書勉強が難しいのです。


ルース・ベネディクトという文化人類学者が『菊と刀』という本を出しました。

キリスト教の文化圏は『罪の文化』であるのに対し、

日本人の思想は『恥の文化』だというのは聞いたことがあると思います。

これを主張したのがルース・ベネディクトの『菊と刀』という本で取り上げられています。


罪は、神を基準にしているんです。

唯一絶対の基準である神に背くかどうかで、罪が決まります。

だから、周りの人々は関係ないのです。

また、罪には赦しがあります。神は人を罪に定めますが、

同時に、主の十字架の血潮を通して完全な赦しがあります。

そこから人々は罪の許しを通して、癒され、回復され、立ち上がることができます。


しかし、日本はどうでしょうか?

罪の概念ではなくて、恥の概念があります。

罪は、神を基準にします。しかし、恥は、周りの人々が基準なのです。

周りの人々がどう思うか、周囲がどう自分を評価するか。

だから日本人は人の目を気にして、周囲ばかりを伺うその生き方が染み付いているのです。


そして、罪には必ず赦しがあります。ヨハネの手紙19節は皆さん知っているでしょう。

しかし、罪には赦しがあっても、『恥の赦し』という言葉は聞いたことがないです。

罪は神が定めて、また神が完全に赦す権威を持っています。

しかし、恥は周りの大多数の人間の評価が決めるので、

それを赦す唯一絶対の権威がないのです。

だから、私達は罪も知らず、罪の許しも知らずに、周りの人々から悪く評価される事を恐れ、

恥ずかしいことをしないように、人々から悪く思われないよう、

失敗を恐れて生きています。

迷惑をかけないように生きます。

それが不自由であり、それが辛いと思いながらも、そこから抜け出すことができないんです。


また、恥をかいたら、取り除くことができないので、

人々は失敗を認めることができません。

過ちを認めることができなんです。

それで、嘘をつき、ごまかし、責任転嫁をすることを通して、それを隠そうとします。

人々から悪く評価されることを恐れるからです。そこには自由がないんです。


これが、ユダヤ人の頑なな世界観、人生観と同じように、

日本人独自の世界観、人生観にもう染み付いています。


私達が聖書を通して罪を教え、罪の赦しを教えることを通して、

私達はそのような誤った価値観、世界観を打ち破り、

主にあって本当の自由を人々に与えることができると信じます。


また、二つ目は偶像崇拝についてです。

偶像崇拝は何ですか?

これは恐れによる支配なのです。

私達は今まで信じてきた神観があります。

神道においてもそうです。

自分も子供の時に、

「あんたそんな悪いことしていると、天罰があるよ、裁きがあるよ、たたりがあるよ」

とは聞いて来ました。


偶像崇拝は、神の与える罰で、たたりで、呪いで人々を縛るものなんです。

だから、恐れによって人々を支配しようとするのが偶像崇拝の考えです。

そして、その恐れから解放されるために、人々は犠牲のいけにえを捧げます。

今も神道で行われる厄払いや、家や会社を始める時にやる儀式がそうです。

偶像の神は、天罰と呪いはあっても、先ほど言ったように赦しがないんです。

(日本のホラー映画の特徴。

怨念、呪い、憎しみ、ねたみ・・・赦しがない。解放がない。西洋のよりもっと怖い)


日本人の特性は何ですか?

もともと、何かに一生懸命になることが日本人の特性だとも言えます。


しかし、残念なのは、まで私達は目に見える物の為に命をかけてきたというところです。

目に見えるものではなく、目に見えない主なる神様の為に命をかけるべきなのに、

それは何か狂信的であるかのように、熱心であることがおかしいかのように映ることに。

そして、目に見えない主に命をかけること、熱心になれないことへの妨げがあります。

二千年あまり、偶像を拝んで目に見えるものが全てだと思ってしまうことの恐ろしさは

そこにあるのです。

これが霊的な高慢さ、心の頑なさです。


28:26語られました。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、

決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。

28:27この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。

こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち返らない。わたしは彼らを癒さない。』


とまさにある通りです。私達にとって信仰は何でしょうか?


ヘブライ111 信仰は、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。


信仰は、霊的な目が開かれることです。

どうか、日本を憐れんで下さり、霊的な目が開かれるよう祈りましょう。


28:25彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとした時、

パウロは一言次のように言った

「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、

28:28だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。

彼らこそ、これに聞き従うのです。

28:30パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、

28:31全く自由に何の妨げもなく、神の国を述べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。


最後に、私達は聞いて終わるものではなく、聞き従う者になりましょう。

教え続けなければなりません。

このブログ記事について

このページは、ヨハン早稲田キリスト教会が2011年12月27日 15:29に書いたブログ記事です。

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