ヨハン早稲田キリスト教会で語られたメッセージの中から幾つかをご紹介。聖書の御言葉の恵みを分かち合いましょう。

喜んで!伝えてください

場所:ハン早稲田キリスト教会・ヨハン教会

土曜礼拝2011.11.16

聖書本文:詩篇100:1-5

主題:「喜んで!伝えてください」


第一点目、それは「喜び」です。1?2節『賛歌。感謝のために。全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え喜び歌って御前に進み出よ。』詩篇の作者は、喜びの叫び、喜び祝い、喜び歌うと喜びで満たされている様子を描いています。

 

喜びと聞いて、皆さんの喜びは何でしょうか?単純に、食べること・寝ることが喜びだという人がいるでしょう。いやいや、霊的なことを喜ばなきゃ・・・。と賛美を歌うこと、祈ることが喜びだという人がいると思います。地上的なもの、天上的なものすべてに私たちは喜びを見出すことができるのが、クリスチャンです。

 

ここの詩篇の作者の喜びの焦点、フォーカスはどこに合わせられているのでしょうか?その喜びが、一時的なものではなく、継続して、満たされる喜びであるその理由は何でしょうか?喜びの理由、これを考えなければなりません。どのように、私に喜びが与えられたのか?

 

この答えは、非常に単純です。私たちの喜びの源は救いの喜びです。私たちの前からすべてのものが取り去られても決してなくならないもの、それは主の十字架の死と復活による救いです。私たちが誰かを喜ばせようとするとき、それは苦労を伴います。

 

喜ばせようとしている対象に即した、プランニング、自分の時間・能力・お金の犠牲が必要となります。そうして、汗と涙を流して苦労した結果、誰かの喜びの笑顔を勝ち取ることができます。私たちのすべてが喜びへとかえられたのは、主が十字架で苦しめられたからであります。

 

イザヤ書53:5『彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。』何度も確認します。言っても言ってもいい足りない事実だからです。

 

つまり、十字架の死と復活、これが私を罪の死から開放して聖霊様による命へと移してくださった、唯一の救いです。救われる前、私がどのような状態であったか?もう皆さんは忘れてしまいましたか?私は常に思い出します。新宿、渋谷とか歓楽街に出るたびに、あの飲み屋でこの飲み屋で、酒に入り浸っていたか。東大本郷に行くたびごとに、自分のいた研究室でどのように暗い生活を営んでいたか。夜寝るたびごとに、なぜ生きるかを考えて不眠症でねれなくなっていた自分を思い出します。救われる前の状態、忘れないでください。私の出発がどれほど惨めな場所であったのか覚えることは、主の恵みがどれほど大きなものかを考えるのに有益だからです。

 


 

使途パウロも大胆に語りました。ローマ6:21?22『では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。』もう一度、出発点を思い出してください。その場所から主は救い出してくださいました。これがどれほどの恵みで祝福でしょうか?

 

主イエスキリストの十字架の死と復活によってのみ、この救いによってのみ私たちは喜ぶことができるのです。さらに、詩篇の作者は喜んでどうしろと語っているでしょうか?2節後半部『喜び歌って御前に進み出よ』御前に進みでよ、と命令しています。

 

主のみ前に進み出でるのは救われたクリスチャンに与えられた特権です。旧約時代、主の前に進み出でるのは大変でした。主に見える場所は、天幕の中の聖所の中にある特別な場所、司聖所しかありませんでした。さらに、そこに入れるのは、年に一度だけ、大祭司のみが、自分の罪を清めるあらゆる儀式の手順を経て、司聖所に入ったのです。しかも、その手順が間違っていれば大祭司は入った瞬間死んでしまいます。

 

それくらい、御前に進み出るというのは、厳粛なものだったのです。しかし、主イエスキリストが十字架でなくなったその瞬間、司聖所にかかっていた天幕は真っ二つに裂けました。ついに、司聖所への道が主イエスキリストによって備わった瞬間だったのです。いまでも、たとえば大統領とか天皇とかのVIPに近づこうとすると、大変です。いろいろな手続きがって、許されないこともあります、というかほとんど許されないです。あいたいと思って、大統領のもとへ、走っていったら何が起こりますか?SPに取り押さえられます。いや最悪命を落とします。そんなVIPにいつでもどこでも会うことができるのは誰ですか?そう、そのVIPの子供です。家族です。主の御前に進み出でる特権は、神の子とされた私たちに与えられました。十字架の死と復活によって罪が許されたクリスチャンにしか与えられていません。その基本中の基本、忘れないでください。毎日毎日、十字架を黙想する必要があります。

 

今日も、私は十字架の死と復活によって、生きることができる存在である。その喜びを持って、主の前に進み出ましょう。さらに、救いの喜びを持った私たちに与えられた特権は、その福音を伝えることができるということです。最上の喜びである救いの喜びを持って、その愛を伝えるものとならなければなりません。福音を伝えたとき何が起こるでしょうか?イエス様はマタイ5:10?12で明確におっしゃいました。『義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(11)わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。(12)喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。』

 

そうです。福音を伝えることには必ず迫害が伴います。偏見、勘違い、冷笑・・・目に見える形で実に見えない形で迫害は私に振ってきます。そのとき、私は喜ばなければなりません。その苦しみ、労苦は私に報いとして帰ってくるからだと主はおっしゃいました。私はもうひとつ付け加えます。伝道は、伝道した人が聞いても聞かなくても私は喜びで満たされます。聞いてくれるなら、もちろんそれはすばらしい喜びです。

 

この人に主の恵みが注ぎだされていて、もしかしたらこの人がクリスチャンになって、一緒に礼拝し祈る働き人になるかもしれないからです。期待でわくわくしながら喜びで満たされます。聞いてくれなかったら、どうでしょうか?なんだよ、なんで聞いてくれないんだよ!と悲しむでしょうか?憤るでしょうか?いいえ、ちがいます。それは喜びです。なぜ。この人は私の話に反応できなかったのは主の恵みがないからです。じゃあ、私が伝道されたとき、私がその言葉に反応できたのは?主が私を愛してくださっているからではないでしょうか?

 

そのとき、主が私に働き変えてくださったので、私は足を止め、主日の約束をして教会に来たのです。だから、ああ、主が私にはたらいてくださっているのだなぁ、として喜ぶことができるのです。愛する皆さん。来週からたくさんの人に私たちは声をかけます。恐れないでください。私が伝えた人が、反応が悪くてもよくてもそれは私にとって喜びです。伝道すればするほど喜びに喜びが増し加わるのです!それを体験しましょう。喜びを持って伝導するときに必ず、主は私に実りを与えてくださることを信じます。来週一週間終わって、疲れた顔でこの場所にいないでください。主の恵みの喜びで満たされたキラキラした顔で座ってください。隣の人に言ってみてください。喜んで!伝えてください。伝えるごとに喜びが増し加わると信じます。

このブログ記事について

このページは、ヨハン早稲田キリスト教会が2011年12月31日 05:08に書いたブログ記事です。

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