ヨハン早稲田キリスト教会メッセージ集

ヨハン早稲田キリスト教会で語られたメッセージの中から幾つかをご紹介。聖書の御言葉の恵みを分かち合いましょう。
 

場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

木曜礼拝20093.12

聖書本文:ネヘミヤ1:1-11

主題:神に用いられた人、ネヘミヤ

 

皆さん、こんばんは。

ユースキャンプが先週終わり、恵みの中でそれぞれの場所に遣わされていると思います。

今日取り上げたのは神に用いられる人としてネヘミヤ記を取りあげました。

皆さんはネヘミヤの物語は知っていますでしょうか?

時代は南ユダ王国がバビロンによって滅ぼされ、

国民が70年間の捕囚時代を経て再びユダの地に帰ってきた時の話です。


民衆は国に戻ってきたものの、未だに国は国として十分に機能しておらず、

首都エルサレムの城壁は打ち破られたままでありました。

そのような中でエルサレムの城壁を立て直そうとしたのが、ネヘミヤです。


 ネヘミヤ記のテーマを一言で言うならば、『復興』です

復興は英語で言うとリバイバルです。

だからネヘミヤ記はただ単に城壁を立て直すお話ではありません。

リバイバルの為に必要な要素が十分に書き記されています。

ユースキャンプも終わり、それぞれの場所で私達は主の栄光を表すために

地の塩、世の光にならなければなりません。

今日の本文から3つのポイントで見て行きましょう。


まず、3

ネヘミヤ 1:3 彼らはこう答えた。「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」

 

城壁が打ち破られ、城門が焼け落ちているとはどういう事でしょうか?

ローマ人の物語という本を読んだことがあるでしょうか。

塩野七海が書いた、ローマ帝国の興亡の歴史です。

それは戦争の歴史でもあります。

その中で一つの都市が、国が滅ぼされる時は、その国の城壁が破られる時です。

何の為の城壁であり、城門でしょうか?

門は、出入りを制限するためです。

良いものを受け入れ、悪いものを入れさせない為に城門があり、城壁があるのです。

だから、城壁が破られ、城門が焼け落ちているとはどういうことでしょうか?

良いものも悪いものも関係なく、

好き勝手に何でも出入りできる状態と言うことです。

強盗が入るもの自由、殺人犯が入るのも自由です。

誰一人それを制限することはできません。


ヨハネ10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。

10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。


ここで、私達はこの状況を今の日本に当てはめて考えて見なければなりません。

ユースキャンプで沢山の恵みを受けたと思います。

しかしいざ山を降りて日常の生活に戻るならば、

依然として日本の霊的な状況は悪いままです。

私達がテレビや新聞、雑誌を見るならば、あらゆる情報が私達の耳に入ります。

そこには何の制限もありません。

テレビを見れば芸能界のニュースを聞きます。

ある有名人とある有名人が今度結婚すると聞きます。

しかし、2人の間には既に子供がみごもっているのです。

それを平然と報道します。

芸能人の仲間達は何のためらいもなく祝福します。

それが当たり前になっています。

ある芸能人は自分が男から女に手術して変わりましたと、

その人生の歩みを本にして出しましたとテレビで宣伝しています。

私達は何かがおかしいと思います。

しかし、今の子供達はそれをどのように受けとめるのか、恐ろしくなります。

これは何でしょうか?

価値観の基準が破られています。

何が良いものか、何が悪いものか、その基準は、その制限はもはやないのです。


場所:ヨハン早稲田キリスト教会・ヨハン教会

木曜礼拝20107.15

聖書本文:マタイによる福音書41節-11

 

マタイによる福音書

45次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて

46言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当る事のないように、天使たちは手であなたを支える。と書いてある。

47 イエスは、「あなたの神である主を試してはならない」とも書いてある。と言われた。

 

皆さん、こんばんは。今日の本文はマタイによる福音書4章であります。

これはイエス様が誘惑を受ける場面です。これはどのような状況でしょうか?


イエス様は30歳で公の生涯を始められました。

洗礼者ヨハネから洗礼を受け、これから公の人生が始まろうとする時に、

まず荒れ野で誘惑を受けられたのです。


イエス様の公の人生は何でしょう?

多くの人々に神の国の福音を述べ伝え、

病人をいやされ、主が選ばれた弟子達を訓練する、

それがイエス様の公の人生です。

これを通して主は全世界に影響を及ぼす神の国の準備をされたのです。


しかし、洗礼を受け、公の生涯を始められるにあたり、まず主は悪魔から誘惑を受けました。

つまり、試みを受けました。

天の父なる神様は、その御子イエスがご自分の働きを始められる前に、

悪魔が御子を誘惑によってテストするのを許可されました。

そして、愛する御子がどのように誘惑に対処するのかを判断されたのです。


この試みを御子イエスは、完全に退けて、サタンの誘惑に勝利されました。

それで、イエス様は神の国の福音を述べ伝える伝道の生涯を始められたのです。


これは、私達クリスチャン人生のモデルとして見ることができるものです。


ここにいるほとんどの木曜礼拝に参加する兄弟姉妹は洗礼を受けたかと思います。

または洗礼クラスに参加しているかもしれません。

洗礼を受けることは、クリスチャン人生の公の始まりです。

主が与えられた使命に生きる人生の始まりです。

しかし、私達が公にクリスチャンになったとしても、

私達がこのサタンの誘惑に勝利しなければ、

本当の意味での神の使命に生きる人生、神のビジョンを成し遂げることはできないのです。


マタイ4章を見てみましょう。

イエスは洗礼を受けました。

そして誘惑に勝利しました。

それから公の宣教と癒しと弟子訓練の人生を始められたのです。

これは私達クリスチャン人生のモデルです。


ここには多くの兄弟姉妹がいます。

誘惑は一度で終わるものではありません。日々やってきます。

誘惑はサタンがするものです。

何のためですか?

クリスチャンとしての公の生涯、神の使命を成し遂げようとする全てのクリスチャンにやってくるものです。


サタンの誘惑の目的は何でしょうか?

それは一言で言うと、神の使命、神のビジョンの『中断と挫折』です。

サタンが恐れている事はなんでしょうか?


場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

木曜礼拝2010.7.8

聖書本文:ヨハネによる福音書21節?11

主題:カナの婚礼

 

こんばんは。今日はヨハネによる福音書2章です。

イエス様が生まれ育ったガリラヤ地方のカナという場面における結婚式での出来事であります。

イエス様が行った最初の奇跡であると言われています。

ヨハネによる福音書

2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。

皆さんは、結婚式や披露宴に招かれた人がいますか?

または、この中で結婚している人もいれば、そうでない人もいるでしょう。


私も結婚式を2年半前に挙げました。

その時に結婚式や披露宴の招待状を作ったことを覚えています。

結婚式に招くのは誰ですか?それは新郎新婦です。

新郎新婦の名前で人々を招くのです。

その招待客の中にイエス様や母マリアがいたということは、

この婚礼の主人である新郎新婦は、イエス様と近い関係にあった人かもしれません。


日本では結婚式と披露宴は大体セットです。

大体1日のうちに全部の式が終わります。

しかし、当時のイスラエルでは、婚礼の宴は水曜日から始まって1週間続きます。

当時、婚礼は人生で最も祝福された日とされたのです。


 しかし、この喜びの時に問題が生じます。

宴会の途中でぶどう酒が切れてしまったということです。

ヨハネによる福音書

2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。


これは非常事態でした。

イスラエルには「ぶどう酒がないなら喜びもない」という諺まであるほどで、

宴の席で、ぶどう酒は必要不可欠なものだったのです。

ぶどう酒は結婚の喜びを増し加え、

分かち合うもの(詩篇104:15,伝道書10:19)と考えられたのです。


私達は、この物語をどのように考えますか。

婚礼の場面において、最も大切な婚礼の宴を盛り上げ、

楽しいものにするぶどう酒がなくなったというこの出来事をどのようにとられるべきでしょうか。

この婚礼は、ある意味『わたしたちの人生』に例えることができます。



場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

木曜礼拝2010.4.8

聖書本文:エレミヤ書291節-14

主題:将来と希望を与える計画

 

皆さんこんばんは。

今週からエレミヤ書の日々の御言葉が始まりました。


エレミヤの預言者としての活動期間はヨシヤ王の時代13年から、

ヨヤキム王、そして、ゼデキヤ王の時代にバビロン捕囚が起こるまで続きました。

今日の本文は、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムを占領し、

捕囚としてバビロンに連れていかれた人々に対し、

エレミヤが手紙を送ったその文面であります。


イスラエルの民族がエジプトを脱出し、

イスラエルに定住してから、700年以上経ちました。

彼らはカナンの地に定住していました。エルサレムには神殿が建てられ、

そこにおいて、彼らは主を礼拝していたのです。

彼らは神によって選ばれた偉大な民族でした。

他の異邦人は軽蔑すべき存在でした。

主なる神様は常に彼らを守り、何があっても助けてくれると思っていました。


しかし、彼らの期待は外れて、偽預言者の預言も外れ、

BC586年にバビロンによってエルサレムは陥落し、

彼らは捕囚として捕らえられていく事になります。


彼らを守ってくれるはずの神は何もしてくれなかったのです。

期待は外れました。

そして、彼らはバビロンという全く異邦の地、

偶像の神々があるその土地において住まなければならないという現実に直面する事になりました。


私達も、時に受け入れがたい現実に直面するということがあります。

こんなはずではないという現実を見ることがあります。

そのような時に私達はどのようにすればよいのか。

またバビロンに連れていかれた人々に対して、

エレミヤはどのような内容でメッセージを語っているのか、見ていきたいと思います。



場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

主日礼拝2007.5.27

聖書本文:創世記2615-29

主題:命の水の井戸である教会

 

皆さん、こんばんは。私自身は先週の金曜日から主日を挟んで今週の火曜日朝まで韓国に行って来ました。

皆さんは夏のKOSTAに毎年来られている申ギヒョン先生を御存知でしょうか?

2年前までソウル女子大学の教会を牧会し、2年前から新しくイハン教会という教会を開拓しました。

来月そちらのイハン教会から派遣宣教師として任命されるということで、

今回はそちらの金曜徹夜祈り会での日本宣教の証しと主日礼拝のメッセージをする機会が与えられ、

イハン教会において奉仕する恵みが与えられました。

私は勿論日本人であります。

しかし、韓国の教会が日本に宣教師を送るということで日本人の私を派遣宣教師として応援し、

助けてくれるということを聞き、本当に感謝の心で溢れました。

日本のそのような事ができる教会があるのでしょうか?そのような余裕は日本の教会にはないのです。

韓国は2001年にビジョントリップに行った以来なので6年ぶりになりました。

久しぶりに訪れた韓国はやはりどこを見渡しても教会の十字架が見えるということで、

改めて韓国の霊的な状況が日本とは違うということを感じました。


そちらの教会において、日本の霊的な状況を説明することにおいて、

聖書の中でそのような箇所があるかと考えて今日の本文を取り上げました。

それは『井戸』についてです。

皆さんは実家に井戸がありますでしょうか?

私の実家は田舎ですので、井戸があります。

勿論現在は水道が通るので井戸はふさがれています。

今日の本文は井戸をめぐって話が進められていきます。

井戸は、その当時中近東の地方ではまさに『命綱』でありました。

なぜなら、中近東は、乾燥地域であります。

昼は40度近くまで、夜は氷点下まで冷え込むような寒暖の激しい場所だからであります。

そのような状況では飲み水を確保することが自分の命を保つ為に重要なことでありました。

そして、井戸を掘り当てることは、偉大なことでありました。

だからこそ、井戸と水をめぐっての様々な争いが起こるのであります。

 

イサクは主の祝福を受ける存在でありました。

そして、彼は土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫がありました。

井戸も掘り当てるようになるのです。

しかし、そこでイサクが直面した敵対者がいました。

それが誰でしょうか?ペリシテ人です。

 

創世記 26:15 ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた。

26:16 アビメレクはイサクに言った。

「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」 

26:17 イサクはそこを去って、ゲラルの谷に天幕を張って住んだ。

26:18 そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、

アブラハムの死後、ペリシテ人がそれらをふさいでしまっていた。

イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けたとおりの名前を付けた。 

 

彼らは、イサクの父であるアブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとく塞いだ。とあるのです。

しかし、イサクは勇敢にもそれらの井戸を掘りなおしたとあるのです。

ここで、井戸とは何か?考えて見ましょう。



場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

木曜礼拝2007.9.20

聖書本文:使徒言行録7:30-50

 

こんばんは。素晴らしい賛美、ありがとうございました。

衣装も映像もあって良かったと思います。

今日の本文は使徒言行録7章の箇所であります。ステファノの説教です。

ステファノは恵みと力に満たされた執事でありました。


使徒 6:8 さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。


彼は平信徒です、献身者ではありません。

ペテロを始めとする使徒達が祈りと御言葉の奉仕に専念する為に、

事務的な、行政的な仕事を行う為に任命された平信徒の役員であります。

しかし、彼が行った業は素晴らしいものでした。

彼のあまりにも目覚しい働きの故にユダヤの律法学者、 祭司長達もステファノを捕らえざるを得ませんでした。


ここで私達は驚くべき状況を見ることができます。

使徒言行録4章ではペテロとヨハネが捕らえられて取調べを受けています。

彼らの目覚しい働きの故です。

そして使徒言行録5章では、再び使徒たちが捕らえられて牢に入れられました。

そして、また7章では、今度は平信徒のステファノが最高法院で取り調べを受けているのです。

これは一体どういう状況でしょうか?

律法学者や祭司長は前よりも忙しくなったのではないですか?

以前はイエス・キリスト一人を黙らせれば良かったのです。

イエス・キリスト一人がいなくなれば全て問題は解決すると思っていました。

しかし、今はもっと大変です。イエス・キリストはもはやこの世にはいません。

しかし、ペテロが説教します、奇跡も行います。ヨハネや他の使徒も説教し、奇跡を行います。

今度は12弟子でもないステファノが説教します。

ユダヤの宗教指導者達は動揺したのに違いありません。

なぜ、イエスがいなくなって良かったと思ったら今度はあっちこっちで同時多発的に弟子たちが説教し、奇跡を行っている。

これは巣晴らしいことです。それを誰が行っているんでしょうか?聖霊様です。

一人一人に内住しておられる聖霊様が、イエス・キリストが行う業を弟子たちを通して行っているのです。


ヨハネによる福音書14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、

また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。

この御言葉を信じますか?

この御言葉が私たちを通しても実現することを切に祈ります。


その素晴らしいイエス・キリストが行う業を行う業を行っていたのがステファノであります。

彼の説教で言いたい事は何でしょうか?

これは私達にとっても聞くべき、また悔い改めるべき事が数多くある説教であります。

それを今日分かち合いましょう。

 


場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

木曜2004.8.24

聖書本文:創世記32:23-33

主題:エサウとの再会

 

こんばんは。KOSTAが終わってから一週間が経とうとしています。

皆さんはそれぞれKOSTAで受けた恵みを保ってますます成長しているでしょうか?

KOSTAの最中にも話がありましたが、KOSTAが終わって山を降りてからが、

私たちにとっての本当の勝負であります。

それぞれの遣わされる職場やキャンパスで本当に世の和解者としての実を結ぶ私たちになりますように、祈ります。

 

 今日の本文は創世記32章、ヤコブがヤボク川を渡る場面であります。

ヤコブはアブラハムの孫であり、イサクの息子であります。

そして、ヤコブには双子の兄がいます。名前は知っているでしょうか?エサウであります。

しかし、双子でも外見はまったく似ていない双子です。

エサウは荒々しく山男のような人間であり、逆にヤコブは弱々しく女性的な雰囲気を持つ人間でありました。

もともとヤコブの名前はどういう意味を持っているんでしょうか?

それは『騙す者』という意味があります。

実際聖書の登場人物は、その名前の通りの人生を歩む人物が数多くいます。

彼は兄のエサウが本来受けるべき祝福を計略によって騙し取りました。

そして、エサウに恨まれて、命を狙われ、エサウから逃げながら長い間生活を送ってきました。

そして、この後33章でヤコブはエサウと久しぶりに兄弟の再会を果たします。

しかし、彼にとっては喜ばしい再会ではなく、命の危険を感じる恐ろしい再会であります。

このような場面で、ヤコブはエサウと再会する為にヤボクの川を渡ろうとしているところです。


 

 今日の本文、

創世記32:23その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。

32:24皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、

32:25ヤコブは独り後に残った。

 

とあります。

私達はKOSTAが終わって沢山恵みを受けたと思います。

しかし、実際に世の中に出てみるならば、現実が変わっているかと言えば、

何も変わっていないのであります。

KOSTAが終わって山を降りたら、家族の反応が変わっていたでしょうか?

職場がキリスト教に理解を示すようになっていたでしょうか?

そんな事はないのです。

折りしもKOSTAの初日は日本が太平洋戦争で敗戦した日でありました。

小泉首相は靖国神社を参拝しました。

日本とアジアの国も何も変わっていません。

私達がKOSTAの会場に行く前に持っていた課題は何一つ解決されていない事に私達は気付かされるのです。

ここで、私達はKOSTAで山を降りてから、それぞれのエサウと対面しなければならない事を心に留めましょう。

ヤコブは今までエサウを避けて何とかうまく人生をやりくりしてきました。

ヤコブは頭の回転が速い人物です。

色々な計略で財産と家畜を蓄えてきました。

子供も11人も生まれました。

しかし、人生の中で一番大きな課題であり、問題の中心であったエサウとの関係が、何一つ解決されていなかったのです。

今年のテーマは何だったんでしょうか?

『世の和解者 イエス・キリスト』です。

神様との和解、隣人との和解...ヤコブにとって人生の大きな課題はエサウとの和解でありました。

 

創世記 32:12どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。

兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。


ヤコブにとっての一番の悩みがエサウとの関係でありました。

いくら金持ちになっても、子宝に恵まれても、

いつも心に引っ掛かるのがエサウだったのであります。


私たちもそうではないでしょうか?

 

場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

主日2時礼拝

ローマ信徒への手紙718節-84

主題:福音の再発見

 

皆さん、こんにちは。

今日の本文はローマ信徒への手紙であります。

ローマ書は新約聖書の中でも福音に対する核心的な内容を語っている書簡であります。

この手紙が書かれた時、使徒パウロはまだローマにいませんでした。

彼はローマに行きたいという切なる願いの中でこの手紙を書きました。

使徒パウロは

1:15それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。

と訴えている通りです。

パウロは、ローマの人々に福音を告げ知らせるためにこの手紙を書きました。

では、ローマの人々は福音を知らなかったのでしょうか?

いいえ、知っていました。

イエス・キリストが神の子メシアであること。

イエス様が私達の罪の身代りに死なれたこと、

そして三日目に蘇られたこと。

主イエスを信じるすべての者に罪の赦しと永遠の命が与えられること。

これらはみな福音の内容です。


ここにいる既に主イエスを信じているクリスチャンの兄弟姉妹はこの福音を信じています。

信じていない人も、福音の内容について、聞いた事はあると思います。

それは主イエスの十字架と復活が私達の罪の購いのためであるということ。

その十字架を通して私達に神の愛を示されたということです。


ここで、私達は使徒パウロが告げ知らせたい福音を考えてみなければなりません。


私達はKOSTA集会を通して、恵みを受けました。

しかし、私達を本当に生かすのは何であるのか。

それを今日考えてみたいと思います。



場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

土曜礼拝2011.8.6

聖書本文:列王記下1920節?37

主題:ヒゼキヤの祈り

 

皆さん、こんにちは。

今日の本文は列王記下19章です。

ヒゼキヤ王の時代です。

ヒゼキヤ王の治世6年に、北イスラエル王国はアッシリアにより滅亡されました。

そしてこの物語はヒゼキヤの治世14年の話です。

私達はこの時代、アッシリアという国が北イスラエル王国を滅ぼし、

また南ユダ王国にも攻撃の手が迫るという国家的な危機の中で、

いかにしてヒゼキヤがこの危機を乗り越えたのかを見ることができます。

私達は実は、この記事は列王記下、歴代誌下、そしてイザヤ書にまで同じ記事があることを見つけることができます。

実に旧約聖書で3か所も同じ内容が残されています。主がこの歴史的な主の勝利の出来事をいかに心にとめておられるかが分かります。


19:14ヒゼキヤはこの手紙を使者の手から受け取って読むと、主の神殿に上って行った。

ヒゼキヤはそれを主の前に広げ、

19:15主の前で祈った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。

あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになった方です。

19:16主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いて御覧ください。

生ける神をののしるために人を遣わしてきたセンナケリブの言葉を聞いてください。

19:17主よ、確かにアッシリアの王たちは諸国とその国土を荒らし、

19:18その神々を火に投げ込みましたが、それらは神ではなく、

木や石であって、人間が手で造ったものにすぎません。

彼らはこれを滅ぼしてしまいました。

19:19わたしたちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼の手から救い、

地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください。」


これがヒゼキヤ王の祈りでした。

ヒゼキヤの決心を見ましょう。

彼は1813節からを見てみれば、攻め込んできたアッシリアに対して恐れにとらわれました。

そして貢物を治めて何とか国を滅ぼさないで欲しいと、懇願したのでした。

その時、本当に人間臭い方法でヒゼキヤはこのアッシリアの攻撃に向き合ったことが分かります。


今度はそうではありませんでした。

貢物を納めるのではない。人間的な方法でやるのではない。

ヒゼキヤは主の神殿に上って、主の前で祈ったとあります。

主に対する祈りの勝負に専念しましょう。

本当の危機に際して、霊的に目を覚ますことが大切です。


私達は木曜日、メッセージを聞いたように、人間臭い知恵と計略に陥りがちであります。

特に賢ければ賢いほど、人間的な知恵と計略に陥りやすいです。

イスラエルの歴史を見てみましょう。最も知恵のある王様がいました。

それがソロモンです。

彼はその天才的な知恵を用いて国を治めました。

その中の一つが、政略結婚です。

エジプトから妻をめとりました。確かに周辺の国との関係は良好になるでしょう。

しかし、真の神でない偶像崇拝が王家に入りこんで来ました。

ソロモンは晩年、そのような1,000人の妻たちに惑わされて、偶像崇拝に転落しました。

人間の知恵は空しいものです。


ヒゼキヤはこのような真の危機に瀕して、ただ主のみにより頼む姿勢を示したのは幸いな事です。

私達はどうでしょうか?

様々な人生の危機の中で本当に主により頼んでいるでしょうか?

今年のKOSTAが祈りにおいて主に切に依り頼むその時となることを願います。


 

場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会

土曜礼拝2011.4.2

聖書本文:民数記915-23

主題:主と共に留まり、旅立つ

 

みなさん、こんにちは。

今日の本文は民数記9章です。

民数記はエジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地カナンに向かう旅路の物語です

人生を旅にたとえる人がいます。

イスラエルの民が主の命令に従って建設した幕屋の上に、

昼は雲の柱、夜は火の柱が留まり、イスラエルの全ての民に見えるものとなりました。


民数記915幕屋を立てた日、雲は掟の天幕である幕屋を覆った。

夕方になると、それは幕屋の上にあって、朝まで燃える火のように見えた。

916いつもこのようであって、雲は幕屋を覆い、夜は燃える火のように見えた。


この雲は何でしょうか?幕屋の上の雲は父なる神様ご自身がその場にいらっしゃる事を象徴しています。

主なる神様は常にイスラエルの民に伴われる、ということです。


ヘブライ135 神ご自身、「わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない。」と言われました。


神は約束された民と伴われる約束、インマヌエルなる神様の約束です。

そして今や、イエス・キリストの十字架を通して、主を信じた私達一人一人が聖霊なる神様の宿られる幕屋となった恵みに感謝しましょう。

これは何を意味するでしょうか?


一コリント619知らないのですか。あなたがたの体は、神から頂いた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。


とある通り、私達は十字架の血潮により主に購われたものです。

本文によれば、幕屋を立てた日から早速、雲は幕屋を覆ったのです。

つまり、私達がイエス・キリストを受け入れたその日から、その瞬間から、

聖霊なる神様は私達の中に来られ、共に住まわれる恵みが与えられました。

そして16節にあるように、『いつもこのようで』あるのです。

昼は雲の柱、夜は火の柱として、主の臨在は幕屋に留まりました。

イスラエルの民はそれを見ました。私達の人生にも常に主は伴われます。

だからこそ、私達の人生の主権は主にあることを認めなければならないということです。